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あのひとなら、どうする?

確かイギリス南部のバースでのことだったと思う。

バースといえば bath の語原になった地として有名。温泉が湧くのである。
はるか昔、古代ローマに占領されていた時代にはお偉いさんがわざわざローマからこの地まで湯治に訪れるほど人気のあった保養地だったらしい。今でもその温泉場の遺跡が残っていて、お湯も尽きることなく湧いている(ただし衛生面も当時のままなので現代はお湯に浸かることは禁じられている)。

私が何度目かにバースへ足を運んだのは、「テルマエ・ロマエ」が世に出るよりもずっと前のことだ。
湯治場跡だけで一日をつぶせるくらい保存状態も素晴らしく見ていてまったく飽きないのだが、そのすぐそばにあるバース大聖堂にも興味があったので、一日の旅程の半々ぐらいに分けて見てまわることにした。

バース大聖堂にはかつて修道院も付属していたとのことだが、残念ながらそちらは遺っていない。
聞いた話では男子修道院と女子修道院が隣接していて、境界線になる壁の近くを掘ったら嬰児の骨がわんさか出てきたとか何とか。
さすがにそのあたりのことは逸話に留めているようだったけれど、実際に女子修道院から掘り出された女性の遺骨を、大聖堂の隣の博物館で拝んできた。
ミイラでもないのに骨格がほぼそのまま遺っているさまは見事としか言いようがない。
職員さんの説明によると、年齢が若い女性で、恐らくお金持ちの家の出身だったのではないかという。何かしらの理由で修道院に入ったもののすぐに死んでしまい、実家から寄進されたお金(恐らく持参金)を使いまくって手厚く葬った結果、棺にふんだんに納めたハーブやら何やらのおかげで保存状態が良好になったのではないか、との話だった。
死んでも若さとお金はものを言うなと感慨にふけったものだった。
(なおヘンリー八世の宗教改革によりイングランド国内のほとんどの修道院は撤去ないし破壊されたので、少なくともその女性は十五世紀以前のひとということになる)。

話が大きく逸れてしまった。大聖堂に戻す。

大聖堂はステンドグラスや屋根のアーチが美しく、外壁にも「天使の梯子 Angel's ladder」が模されていたりと、どこを見ても興味を惹かれるばかりだった。
ここで今も毎週ミサが行われている関係からか、無料で見学できるのもずいぶんと太っ腹な話である。

あちこちを舐めるように見ていったん満足してからおみやげショップに寄ってみた。
どこの聖堂も教会も品ぞろえにそんなに変わりはない。が、もしバース大聖堂のミニチュアがあればほしいなと思って物色していたところ、「WIJD」と掘られたメダイ(簡単に言うとペンダントトップ)を見つけた。
よく見ると聖堂オリジナルのメモ帳やクッション、それに一部のロザリオににまでその文字が刻まれていた。

私はしばらく考えた。
「INRI」なら、わかる。絵画の磔刑図でもよく見る文字だ。十字にはりつけにされたキリストの上にそう掘られた木片が打ちつけられたと、聖書にもある。
意味は「Jesus Nazarenus Rex Judaeorum」、すなわち「ユダヤの王、ナザレのイエス」で、これは揶揄と侮蔑をこめてローマ人がわざわざ作って引っかけたらしい(古代ラテン語には J はなく、かわりに I が使われる)。
ローマ人にとってはイエスというひとは治安を乱す異端分子に過ぎない。だから処刑の見せしめついでにそういうことをしたのだが、新約聖書の上ではイエスはユダヤどころかありとあらゆる現世の王を超越した存在なので、また、であるにも関わらずイエスを犠牲にした人類の罪深さを忘れないために、「INRI」と十字架やロザリオに彫りこむことは、現代でもよくある。

しかし「WIJD」というのははじめて見た。
しばらくあれこれ考えてみたがどうにも答えが出ず、白旗を上げざるを得なかった。
そこをたまたまそばを横ぎった牧師さんらしき方をつかまえて、聞いてみた。これはどういう意味ですかと。
すると牧師さんも首をかしげて、

「何だろう?そういえば考えたこともなかった」
「WILDのスペルミスとか?」
「さすがにそれはないと思う」

そんなやりとりをかわしていたら、横から声がかかった。

「What If Jesus Do」

ふりかえったら、レジのそばから女性の店員さんが身を乗り出していた。

「略して WIJD よ」
一拍おいて、牧師さまといっしょに、ああ、なるほど、となった。

What If Jesus Do.
イエスならどうする?

「何か迷ったり、悩んだりしたら、そう考えてみると良いのよ。イエスさまならこういうとき、どうするのだろうって」

店員さんがつけたしてくれて、牧師さんもほおおと感心していた。

「それはとても良い視点ですね」
「やだわ、牧師さん、ご存じなかったんですか?」
「いやいや、おかげで勉強になりました」

ほのぼのと三人での笑いあったあと、その文字が刻まれた十字架を買って聖堂を後にした。

しかし、そのときの十字架は今どこにあるのか、残念ながら見当もつかない。あるとしたら恐らく実家だろうと思う。

そしてそれ以来、WIJD と書かれたものをよその教会などで見かけたことも、私の記憶の限り、ない。

もしかしたらバースのオリジナルなのかもしれない。だとしたら牧師さんが知らなくても道理という気はする。神父にしろ牧師にしろ数年単位で教会を移動するのが慣例だから、その土地ならではのことは案外と知らないままでいることも多い。

どうあれ、私はこの WIJD という略語をたまに思い出す。
私は決して敬虔な人間ではない。
でも、何か問題につきあたってどうしようもなくなったときに、「あのひとだったらどうするだろう」と想像して、ちょっと自分自身と距離をおくことはとても大事だと思っている。

ここでは教会のことなので分かりやすく「イエスさまならどうする?」となっているが、日本でも「あなたならどうする?」とかいうCMがあったではないか。
あれは他人ごとがいざ自分の身に降りかかったらどうする?と問いかけることで問題意識を間近に寄せる集客効果がありそうだが、たとえば尊敬するひととか、ちょっと似たような境遇にありそうなひととか、とにかく自分ではない誰かに当てはめることによって、自分とは違うものの見方ややり方から何かを得ようとするのも、ひとつの手だと思うのだ。

(ここまで書いていて頭の中で「あなたな~らどうする~」と回り出してしまったものだから仕方なくちょっと調べてみた。何と、コーヒーのCMだったのか。CMをyoutubeで観てみるとまったく記憶にないのだがあのシチュエーションで「あなたならどうする」って、バッグからおもむろにコーヒーを取り出す女を相手に私ならどうするって話になる。私ならネタにするとしか答えられない)

困難にさしかかったときほど、視野は狭くなりがちだ。
気持ちの余裕もなくなるし、希望を持ちづらく、悲観的になりやすい。
この苦しさが永遠に続くのではないかと、つい思いこんでしまう。

でも、たとえばひどい死に方をしたひとだって、一生のあいだに良いことがひとつもなかったかというと、恐らくだいたいはそうでもないだろう。
よく「終わり良ければすべて良し」と言うが、じゃあ「終わり悪ければすべてダメ」なのかと考えると、それはないのでは、と言いたくなる。
ものごとの終わり方に負の感情がこびりついてしまうのはやりきれないことだが、だからといってやってきたことすべてをムダとするのは、なんというか、あまり建設的でも健全でもない。
そういうことは「過渡期」と思って、まだ終わっていないことに無理やりでもしておくか、せめて今後の肥やしになると考えれば、あるていどは自分をだましだまし元気づけていける。気がする。

というわけで、私は引っ越しの後かたづけの、いかにも果てしなさそうなこの労苦を、
「ティエリア・アーデならばどうする」
と妄想することで乗りきることにしました。

ティエリアについて軽くでも語ると一週間ほどかかってしまうため、興味のある方は是非とも「機動戦士ガンダム00」を一期一話から劇場版までご覧ください。wikiなどでさらっと完了させるのは決しておすすめしません。

私は二次創作でもさんざん我が推しティエリアの話を書いているので、呼吸をするように彼の動向を脳内で描くことができる。
しかしながら私の脳内ティエリアはわりと本を床に散らかしていたり、かと思えば部分的にちょっと神経質なぐらい整然としていたりと、正直なところあまり参考にはならない。
ならないが、少なくとも私の怠惰さは万死に値するはずだから確実な攻略法を練るはずだ。実行するのは別の人間だが、指示は完璧である。

「イエスさまならどうする」ではなく「ティエリアならどうする」だ。
このほうがモチベーションも上がるというもの。

(というかイエスさまなら引っ越しの片づけをどうするって、せいぜいが「聖お兄さん」の彼バージョンでしか通用しなさそうだし、あの部屋ってものすごくさっぱりしていて相当に収納上手な、しかも既に完成されきったイメージしかないし、たまにムダに買ったりこさえたりしたものは実家に預けてそうだし、さらに私の中で彼らはまだ立川に住んでいて引っ越し回があったとしても確認できていないし、もし引っ越し回があった場合はその情報は聞かなかったことにしたい。場所的にも予算的にもコミックを買い足す余裕がないから)

ティエリアはガンダムパイロットだ。五キロぐらいの段ボールぐらいなら眼前にしても「弱くはないつもり」ですとか言って表情ひとつゆがめずに難なく持っていきそう。あとであの細腰を傷めても断じて表面には出さなそう。かわいい!

たまに自分オタクで良かったなあと救われた思いになることがあるのだけれど、今回もこの調子で大いなる助力となってくれそうだ。
と、片づけのあいだに休憩をとって、ちょっとずつ何とかなっていきそうな散らかった部屋を紅茶のマグを片手に眺めながら、ならそんな感じでいこうとこころに決めた。

ティエリアならどうする。
私では想像もつかない方法で成し遂げるはずだ。
ティエリアならどうする。
黙々とものごとに取り組みそうなタイプではあるだろう。
ティエリアならどうする。
弱音を吐くにしても美しくやるに違いない。ティエリアなんだから。

ただこのやり方の最大の難関といったら、やはり理想(ティエリア)と現実(私)のギャップだ。
それすら「ティエリアならどうする」で埋めていくのもオタクの喜びと思えば存外の推進力になり得る。気がする。

引っ越し前後の事情、体調、精神状態、今後の不安、もろもろ抱えたままでは段ボールなんて持てやしない。
それならティエリアをおんぶしながらやった方が何倍も良い(確か体重は「不明」です。さすがティエリア)。

ということで、明日からもティエリアに支えられ、またティエリアを支えつつ、時に気持ちが弱まってきたら「ティエリアならどうする」と思考を切り替えながら、ひたすら片づけにはげむつもりでいる。

合い言葉は「ティエリアならどうする」だ。
一種のおまじないだ。言霊だ。新たなアヴェ・マリアだ。

何かあったら落ち着いて、そっとこう呟くのだ。
「ティエリアならどうする」
と。

(今回の記事、どこまでまじめでどこからが冗談かわかりづらいかもしれないけれど、すべて本音です。ティエリアは嘘をつかない。というか、つけない。たぶん。冗談までは履修したけど嘘は会得していないはず。確か。片づいたら私も00のDVD一話からぜんぶ観て確認する。ティエリアならきっとそうする)
(書き終えてから読み直している途中でなつかしのティエリアダイエットを思い出した。ちょっと違うが原理は似ている)






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