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覇者の愉悦~『ボルジアの裁き』より

 チェーザレ・ボルジアの権力と栄光は最盛期にあった。既にチェーザレは、彼を一時的に妨害し足止めして覇道の歩みを遅らせただけでなく、彼の覇業を無に帰させんとする叛乱を起こした危険なコンドッティエーリ(傭兵部隊)を鎮圧していた。彼はシニガッリアに仕掛けた罠に鳥もちを塗り、そして――フィレンツェ共和国の書記局長マキャヴェッリの言葉を借りれば、楽しげな口笛を吹いて其処に彼等を誘い出したのである。彼等が容易く誘い出されたのは、己の立場を誤解し、自分が猟師でありチェーザレが獲物であると考えた点にあった。彼はあっという間にその誤りを謀反人達に思い知らせた。そして彼等を捕らえると、雄鶏をひねるがごとくに、さしたる良心の呵責も覚えずその首を絞めたのであった。南方の掃討を終えてウンブリアを通りローマに帰還する間に、チェーザレがその一部を壊滅させ雲散させた叛乱勢力の兵の大半はボルジアの大部隊に編入された。

 ペルージャにおけるチェーザレのかつての傭兵隊長ジャンパオロ・バリオーニ、ボルジアの報復から逃れおおせた比較的幸運な叛逆者の一人は、チェーザレに抗する兵を集めた上で彼を誘い出す為に景気の良い取引材料を用意していた。しかし彼が居城に定めた古代エトルリアの要塞の天辺から、一月の白光の中で遥か遠くに大軍団の鎧が放つ微光を見た時、ジャンパオロは最早一言も発しなかった。その代わりに彼は荷物をまとめると、シエーナにペトルッチの庇護を求める為にこそこそと逃げ出したのであった。

 そして彼が門を出るや否や、ペルージャ――何世代もの間、血塗られた一族に辟易してきた都市――はヴァレンティーノ公爵を歓迎するメッセージを託した大使を送ったのであった。

 ジャンパオロはアッシジでこの報を聞いたが、彼の激怒はバリオーニ一族という立場を踏まえても尚、桁外れなものだった。彼は威圧的な権勢家であり、長い胴と短い脚をした猿のような体型の優秀な兵士であり、世に知られる蛮勇と弁舌の才によって引き付けた追従者達を従えていた。ペルージャからの退去に関しては、彼のボルジアに対する憎悪の冷たく打算的な性質に訴えて、ペトルッチと同盟して共にトスカーナを扇動すれば公爵に抗する力を得られるかもしれぬという見込みによって彼を説得し慎重な判断を促す者達の声に一旦従う事にしたに過ぎなかった。

 けれど彼が心待ちにした挙句に受け取った報せは、ペルージャの彼の都市は――彼が予測していたように――征服者に嫌々頭を垂れたどころか、我から跪いて敬意を表し、両腕を広げて歓迎したというものであった。彼は逃亡を決断した己を猛烈に悔い、激怒に我を忘れた。

 彼は進軍中の公爵に抵抗する為にアッシジを扇動しようと試みる程怒り狂っていた。しかし聖フランチェスコの都市は血気にはやるジャンパオロに告げたのであった。公爵が到着する前にとっとと失せるが良いと。何故なら公爵は既に間近に迫っており、ジャンパオロは発見され次第、確実に彼の仲間の謀反人達と同じ運命を辿るであろうからと。

 バリオーニは憤激を抱きつつ、シエーナへ逃亡する為に出発した。

 だがアッシジの約3マイル南で彼は手綱を引き、スパシアの丘に突き出た険しい岩山の上にそびえ立つ荒涼たる灰色のソリニョーラ砦を見上げた。それは不屈の老狼グイド・デッリ・スペランゾーニ伯爵の居城だった。老狼グイドの誇り高き事、反逆天使ルシファーの誇りもかくやというものであり、その猛々しい性質は――彼が母方から受け継いだ――バリオーニ一族の猛々しさであり、教皇に対する彼の不服従は異端者もかくやというものであった。

 ジャンパオロは霧雨の降る中、唇をすぼめ、しばし馬上でソリニョーラを見つめていた。彼は思案した。今夜、チェーザレは淫売のようにいそいそと彼に身を任せたアッシジで眠りにつくのだろう。明日、彼の公使はソリニョーラの主の許に送られるだろう。そしてかの老戦士がジャンパオロの知る男のままであるならば、間違いなく、グイド伯爵の返答は公爵の申し出に対する傲慢な拒絶であろう。

 ジャンパオロは心を決めた。彼はあの砦まで登り、スペランゾーニを訪ねる事にした。

 伯爵が本当に抵抗の準備を整えていたならば、ジャンパオロにとっては大いに助けになる。もし彼の堅い決意が大抵の者達同様にチェーザレ・ボルジアが接近してきただけで鈍るようなものでなければ、ボルジアはシニガッリアにおいては無残に失敗するかもしれない。それにより彼の縊り殺された盟友達の復讐は果たされ、そしてイタリアはこの災禍から開放されるであろう。その災禍とは、つまりは彼が公爵チェーザレ・ボルジアを指して言った言葉であるのだが、しかしその彼自身、つい最近まで自らの意志でその災禍に臣従していたのである。だがジャンパオロはそのような些事を気にする男ではなかった。

 彼は武装した追従者達――多くの者が離脱していったこの段階にあっても、彼に忠実に従っていた数十名の兵士――を振り向き、ソリニョーラに登る意向を告げた。そして曲がりくねった山道を彼が先頭となって進んで行った。

 鉛色の冬空の下、樹木に乏しい灰色の荒涼を見せているウンブリアの広大な平野から峠道を通り登って行くにつれて、ソリニョーラの領地とその支配域を形成している幾つもの丘の斜面と東の谷に位置する小都市と村落の集まりを彼等は認知した。これらはほとんど丸裸の状態であり、公爵を前にすれば容易く餌食にされるのは目に見えていた。だがバリオーニは、あの猛々しい老伯爵がそのような斟酌からボルジアに抵抗する決意を鈍らせるような男ではない事を知っており、その決意に拍車をくれてやろうと考えていた。

 ペルージャ人の小集団がソリニョーラの北門に着いたのは夕闇の訪れる頃であり、聖堂の鐘はお告げの祈りを知らせる為に鳴っていた――純潔の聖母を称える夕べの祈祷は、あの不潔なるボルジアの教皇によってイタリアに復活していたのである。先日の雨で増水し焦茶色になった泡立つ谿流がテヴェレ川に注ぎ込む為に真っ逆様に落ちて行く、岩に開いた大きな割れ目にかかる橋の上をバリオーニ一行は鎧を軋ませながら進んだ。

 見張りに素性を明かして都市の中に入り、彼等を北方からこの地に向かって襲い来ようとしている侵略の前触れと見た民から畏怖の視線を送られながら、其処から更にロッカ(砦)に向かう険しく長い路をジャンパオロ達は馬で進んだ。

 このようにして一行は勇壮な要塞に辿り着いたが、広い中庭へと重い衝撃音を立てて可動橋が降ろされると、彼等はすぐさま武装した兵士の一団に取り囲まれて彼等自身の素性を問われただけでなく、チェーザレ・ボルジア軍の動向についても質問攻めにあった。ジャンパオロは手短に話し彼等を満足させると名を告げて直ちにグイド伯爵に会わせるよう要求した。

 ソリニョーラの主人はサラ・デッリ・アンジォーリ教会――天国の門が開かれ雲間から天使が姿をのぞかせている、ルイーニ[註1]の筆によるフレスコ画の描かれた天井で知られる部屋――で行われている会議に参加していた。伯爵と同席していたのは、アンツィアーニ(参事会)の長デル・カンポ、職人ギルドの長ピノ・パヴィアーノ、谷からやってきた二人の紳士――アルディとバルベッロの領主、アッシジの紳士ジャンルカ・デッラ・ピエーヴェ、そして伯爵の二人の主要な士官、ソリニョーラ城の家令と傭兵隊長サンタフィオーラであった。

 彼等は広い傘付煙突の下で爆ぜる丸太の炎を除けば明かりのない部屋で、薄暗がりの中、長方形の樫テーブルについていた。そして彼等と共にテーブルの終端、伯爵と相対する位置に座っているのは、この好戦的な評議会には不釣合いな参加者である紅一点――マドンナ・パンタシレア・デッリ・スペランゾーニ、グイド伯爵の令嬢であった。ほんの少し前までは小娘に過ぎなかった彼女は、この数年でその肢体と容貌は輝くような女らしい成熟をとげていたが、その頭脳と人格は非常に男性的であった。彼女を描写する為に、チェルボーネの学者は一年前に『ビラーゴ(男まさり)』[註2]という言葉を――しばしば誤用される方の意味ではなく、字義通り、その語源に忠実に「女の肉体に男の知性と精神を宿す者」という意味で用いていた。

 パンタシレアのこのような資質は、グイド伯の一粒種の相続人であるという立場と同じ比重をもって、彼女が今、この会議に参加しボルジアの侵攻に関する深刻な状況の全てを聞かされている理由を成しているのであった。彼女は堂々たる長身であり、その物腰と聡明な頭脳には王者の威厳が備わっていた。彼女の目は大きく、黒く、輝かしく、燃えるような銅色の髪と、北方の血筋によるきめ細かい白い肌をしていた。彼女の繊細な唇の豊かな色はその身体に流れる暖かな血を物語り、その唇の描き出す表情は秘めた勇気と意志の強さの証となっていた。

 この会合の中にジャンパオロ・バリオーニが案内されて来ると、一同は彼を歓迎して立ち上がった。力強いがに股で金属音を響かせながら部屋に入ってきた彼は、暗がりの中でちらつく火明りが見せた錯覚の為に全身の装甲と黒い顎鬚のある浅黒い顔に返り血を浴びたような不吉な姿であった。

 進み出てきたグイド伯爵は暖かな挨拶の言葉と共に彼を抱擁して歓迎し、次に狡猾なバリオーニとっては渡りに船の申し出を行った。伯爵は一同に彼を紹介し、彼にも会議に参加するよう求めた。ジャンパオロの到着は実にうってつけのタイミングであり、彼は自分達が紛糾していた問題についての行動方針を決定する為に的確な助言を行えるであろうからと。

 彼はその名誉に感謝を表明して、鎧を軋ませながら差し出された椅子に座った。グイド伯爵が明かりを運ぶように命じ、用意された蝋燭の光は道中で付着した甲冑の汚れによって強調されたジャンパオロの憔悴を浮かび上がらせた。彼はくすぶった目で会議の参加者をぐるりと見渡すと、アッシジの紳士ジャンルカ・デッラ・ピエーヴェに気付いて陰鬱に微笑した。

「馬を飛ばしてきたつもりだったが」と彼は言った。「私より先にアッシジの事件を報せた者がいるようだな」

 デッラ・ピエーヴェは彼に答えて言った。「私は三時間前に到着し、アッシジが凱旋門を急造せんばかりの歓迎ぶりであの侵略者を受け入れたという報をお届けしました。彼の為に市庁舎が明け渡されており、抵抗勢力を相手に作戦を展開する為の拠点として、ボルジアはあの都市にしばしの間留まるものと思われます」

「そして、ソリニョーラもその抵抗勢力に数えられるのだろうか?」ジャンパオロはグイド伯爵に視線を定め、ずけずけと尋ねた。

 ソリニョーラの老いた主は穏やかに彼の視線を受け止めた。彼の精悍な顔は計り難い表情を浮かべ、唇の薄い口はきつく結ばれていた。端正で、力強く、狡猾な――決して易々と屈する事はないであろう人間の顔だった。

「それこそが」彼はゆっくりと答えた。「我々がここに集まり、決断を下そうとしている議題だ。貴卿にはデッラ・ピエーヴェがもたらした情報に付け加える事が何かあるのだろうか?」

「ござらぬ。ジャンルカ殿は私が告げようとしていた事を全て語った」

「だとしても、貴卿が実に折りの良い時にやって来られたのに違いはない。我々の議論は膠着状態で、同意に達する可能性は高いとは思えぬ。宜しければ、貴卿にも忌憚ない意見を聞かせて欲しい」

「ご承知の通り、バリオーニ殿」バルベッロの主――赤ら顔の陽気な中年紳士――が口をはさんだ。「我々の利害は異なっており、そして我々は当然、己の関心事を優先する」

「さもあろう、おっしゃる通りに」微量の皮肉と共にバリオーニが同意した。

「今や我等あの谷に住む者は――我が友フランチェスコ・ダルディもであるが、否定する事はできぬ。我等の谷は攻撃に対して成す術もなく開かれていると。我々は無防備だ。幾つかの城砦都市のように砲撃に抵抗する壁は、我々には一切ないのだ。グイド伯爵とソリニョーラの人々が抵抗を主張するのは大変ご立派な事だ。ソリニョーラ砦は難攻不落と言っても良い。この都市は糧食も豊富に蓄えられ、守備隊も整っている。グイド伯爵の御意に従い、その利を生かして長く抵抗を続ける事は不可能ではない。だが、その間、この砦の下方で生活する我々の運命はどうなる?チェーザレ・ボルジアは首都の頑固さに対して、我々を報復の対象とするだろう。それゆえに我々は伯爵に進言を申し上げている――そして我々は意見を同じくする工匠ギルドのマスターの票も持っている――アッシジと、バリオーニ閣下のペルージャの例に倣い(ジャンパオロはここでたじろいだ)、降服の申し出を託した大使を公爵の許に送りたまえと」

 ジャンパオロは頭を振った。「それは公爵が首都の抵抗に対する報復として保護領にとるやり方ではない。彼はあまりにも奸智に長けている、私はよく知っている。都市の歓心を買う事で従属させるのが彼の常套手段だ。貴卿が谷の都市に懸念しているような炎も剣もないだろう。ソリニョーラの抵抗に対しては――もし抵抗するならば、だが――ソリニョーラだけが攻撃を受けるだろう。私があの公爵に仕えていた時に得た知識から、それについては断言できる。ファエンツァの事を思い出すが良い。ヴァッレ・デル・ラモーネ(ラモーネ平野)の民は危害を被ったであろうか?いや、何もだ。降参する道を選んだ砦は平和的な引渡しで済んだ。ファエンツァ自身は頑強に抵抗したが」

「あれはほとんど無駄な抵抗でしたな」パヴィアーノ――ギルドの長――が、苦々しげに口を挟んだ。

「それは」とグイド伯爵が言った。「この議題の要点ではない。それにファエンツァはソリニョーラのように自然の要害に拠ってはいなかった」

「とはいえ最終的には」とバルベッロが抗弁した。「降伏は避けられませぬ。永久に一万の軍勢に抵抗し続ける事は不可能です」

「奴等とて永久に我々を攻め続ける事はできん」とコンドッティエーロ(傭兵隊長)のサンタフィオーラが刈り込まれた頭を上げて厳しく言った。

 バリオーニは椅子に深く座り、眼前で繰り広げられる激論を聞いていた。彼は競技者達の中央にボールを投げ入れ、それが試合の間せわしなく飛び交う様を眺める者のようだった。

 グイド伯爵も同様に論議にはほとんど加わらず、無表情に、ただ静かに耳を傾けていた。伯爵の真向かいの位置に座る令嬢はテーブルに肘をついて手の平で顎を支え、抗戦の支持か反対かで議論が動くにつれてその瞳を時に熱意で燃え上がらせ、時に蔑むように冷やかにさせながら交わされる言葉を聞き漏らさぬよう集中していた。だが論争は半時間に及んでも一向に結論には至らず、ジャンパオロが到着した時から一歩も進んではいなかった。

 徹底抗戦を求めたサンタフィオーラの激烈な嘆願の後に一瞬訪れた静寂を利用して、グイド伯爵が再びペルージャ人の方を向き発言を求めたのはこの時だった。

「諸君等の議論に私が一助を与える事ができるやもしれぬ」乞われたジャンパオロはゆっくりと話し出した。「何故なら私の提案はこの論議のどちらかに加担するものではないからだ。私の提案は中道策だ。諸君等が無益な話し合いで時間を浪費せぬ為に必要なのはそのような策であろうし、恐らくは伯爵も私の発言が耳を傾けるに値するとお考え下さるはずだ」

 一同は期待するように身じろぎし、謹聴の為にしんと静まった。パンタシレアの視線も他の者達と同じく語り手の顔に定められ、彼が話す間、其処から離れなかった。

「諸君」彼は言った。「この場では抗戦と降伏について議論がなされた。攻撃について、攻勢に出るという想定については諸君等も検討されたであろう」

「どれだけ通用するものだろうか?」サンタフィオーラは不機嫌な顔で問うた。「我々には丸腰の兵が五百人いるだけだ」

 だがバリオーニは横柄な仕草で手を振ってコンドッティエーロ(傭兵隊長)に沈黙を求めた。

「拙速な結論を出す前に私の話を最後まで聞くのだ。諸君等も知る通り――いや、知らぬとしても不思議はない、何せイタリアでは大嘘がまかり通っているのでな、あの事件については。関わった勇敢な紳士達、我が友であった者達は、皆がシニガッリアにおいて死という運命にみまわれた――私自身、神の御慈悲によって辛うじて逃れる事ができた死に」そして彼は敬虔を装い十字を切った。「あれはな、諸君、あの公爵を罠にはめて全てを終わらせる計画だったのだ。彼が都市に乗り入れて来た時、石弓の射手達が一斉に射掛ける手はずだった。だが、彼は悪魔――人の姿をした悪魔だった。彼は前もって警戒していた。プラエモニツ・エト・プラエムニツス(警戒は警備也)。彼は罠を回避して罠を仕掛けた者達を捕らえた。後の事は諸君も知る通りだ」彼は身を乗り出すと血走った目を出席者全員の上に走らせた。「諸君」かすれた、執念のこもった声で彼は締めくくった。「シニガッリアでの失敗は、アッシジで取り返せるやもしれぬ」

 それは彼の話を一心に聞き入っていた一同の間に動揺を巻き起こす発言だった。彼は挑むような強い眼差しで彼等を見た。「これ以上の言葉が必要だろうか?」彼は尋ねた。

「勿論です」パヴィアーノは叫んだ。「如何にして、何時。方法と手段を」

「おお、無論だ。だがまず最初に――」彼はグイド伯爵の方を向いた。

「伯爵はこのような道を選択する御心をお持ちでありましょうか?飽く事を知らぬ侵略者の魔手から、御自身の、そして他の者達の領地を救う為に。チェーザレ・ボルジアを打ち砕く事は、即ち教皇軍の頭と脳を打ち砕く事です。さすればロマーニャへの侵略は終わり中部イタリアにも安息が訪れるでしょう。チェーザレ・ボルジアに命ある限り、トスカーナの王となるまで休む事はないでしょうから。彼に近づくのは容易な事ではありません。そしてシニガッリアの一件以来、彼は非常に用心深くなっています。それでも彼がアッシジに留まっている間ならば好機はあるはずです。伯爵、御身にそれを掴む御心がおありならば」

 グイド伯爵が眉を寄せ熟慮する間、他の数名の顔には熱意が、また別の少数には激烈な賛意が浮かび上がっていた。だが其処でデル・カンポ翁から異議が唱えられた。

「御身が提案しておられるのは殺人ですぞ」彼は冷ややかに叱責する口調で言った。

「それが何だと?そのような埒もない言葉ひとつが大の男にとって何の障壁となるのだ?」バリオーニは荒々しく問い詰めた。

「少なくとも、一人の女にとっても何の障壁にもなりませんわ」マドンナ・パンタシレアは明瞭な少年めいた声でそう言うと、この評議会での初めての発言によって場の注目を浴びながら立ち上がった。彼女の黒い瞳には熱を帯びた輝きがあり、その白い頬には紅潮が高まっていた。一同を見渡すと彼女は語りだした。「ジャンパオロ閣下がお話しになった事はまぎれもない真実です。チェーザレ・ボルジアに命ある限り中部イタリアに平和はありません。一事によって、そしてその一事によってのみ、ソリニョーラは救われるのです――チェーザレ・ボルジアの死によって」

 彼女の朱唇から発された言葉――既にバリオーニによって口に出された言葉――は、喝采のどよめきによって報いられた。彼女の美しさと輝かしい女らしさ、それが彼等を動かした――道理や名誉、知識に抗しても、男として心を動かされずにはおられぬものだった。

 だが老齢のデル・カンポは女性の名状しがたい引力によって動かされぬままでいた。喝采が弱まると、彼は立ち上がった。彼は冷静かつ冷淡な顔をグイド伯爵に向けた。

「我が君におかれても」と、彼は氷のように冷たい声で尋ねた。「ご賛同なされますのでしょうか?」

 老伯爵は一瞬の思案の後に口を開いたが、その白い顔は語る声と同じく厳しかった。「デル・カンポよ、そなたは如何なる理由で反対するのか?そなたがそのように主張しておるのは明らかだ」

 アンツィアーニ(参事会)の長は伯爵の冷酷な視線を受け止めた。彼はいささか皮肉っぽく一礼した。「これをもって返答の代わりに」そう言って彼は椅子を後ろに押すと、テーブルから離れた。「我が君、そして皆様方、私が加担するつもりのない計画についての議論がこれ以上進む前に、退出のお許しをお願いいたします」

 彼は再び一同にお辞儀をすると毛皮で縁取られたローブを翻し、沈黙と冷気を後に残して堂々と会議室を去った。

 動揺で顔面を蒼白にしたジャンパオロが立ち上がるより前に、去り行くデル・カンポは己の背後で扉を閉じていた。

「伯爵」ジャンパオロは叫んだ。「あの者をこの要塞から出してはなりません。我々の命がかかっているやもしれません。夥しい数の計画がこれよりも些細な事で失敗したのです。チェーザレ・ボルジアの密偵は至る処に潜んでいます。ボルジアの手の者達はソリニョーラにも潜入しているでしょう。もしもデル・カンポがここで耳にした言葉を口に出したならば、あの公爵は明日にでもそれについて知る処となるやもしれません」

 一瞬の静寂が落ちた。グイド伯爵の目はジャンパオロに問いかけているように思われた。

「全てが終わるまでデル・カンポ殿を閉じ込めておくには、この城の地下牢でも浅すぎる」そう言って彼は小声で付け加えた。「実際、どれ程の深さがあれば足りる事か」

 伯爵はサンタフィオーラを向いた。「疎漏無きように」彼が低い声で言うとサンタフィオーラは立ち上がり、命じられた事を実行する為に出て行った。

 マドンナ・パンタシレアは蒼白になった。彼女の目は見開かれていた。マドンナは長の年月、彼女自身とその父の誠実な友人であり続けたデル・カンポ老人に待ち受ける最悪の運命を案じた。だがそれでも彼女はこの処置の必要性を理解し、女らしい情を押さえつけて彼を庇う言葉を口に出さなかった。

 伯爵は厳粛に一同に演説した。

「皆の者」彼は言った。「ジャンパオロ殿の提案は全会一致で賛同された」

「思うに」とフランチェスコ・ダルディが口をはさみ、一同の注目は彼に集まった。彼は学者にして芸術の後援者であり、生来の抜け目なさに加えて世知にも長けた男であり、宮廷にも頻繁に出入りしヴァチカンにおいてはソリニョーラの雄弁家を務めていた事もあった。「バリオーニ閣下の御提案は、そのままではいささかの懸念がございます」

 険悪な視線と苛立ちで鼻を鳴らす音、そして短い軽蔑的な笑いがバリオーニの返答であった。だが彼は冷静に反対意見を受けて立った。そして彼が間を置いたその時、サンタフィオーラが再び会議室に入って来た。

「待たれよ」フランチェスコ・ダルディはそう言ってとりなすように笑った。「私は地下牢でデル・カンポの仲間になるのを望んでいる訳ではない」

 自分の席に戻ると、サンタフィオーラは冷酷な笑みを浮かべた。その笑みと彼の沈黙が、一同のコンドッティエーロ(傭兵隊長)に対する内心の問いに対する答えだった。

「申してみよ」伯爵はアルディの主に促した。「我々は皆、貴卿の有能を知っておる、フランチェスコよ」

 フランチェスコは一礼し、咳払いをした。「ジャンパオロ閣下は我々にチェーザレ・ボルジアの死によって何が起こるであろうかを御説明くだされた――最終的にもたらされる結果の重要性を鑑みれば、彼の殺害を正当化するには十分だ。だが我々は、ここソリニョーラにおいて、この行為の結果として即時に何が発生するのかを考慮しなければならない。その短期的な結果が我々にどのような影響を及ぼすのかを」

「国家の福利の為に犠牲を払うのは、個人の義務だ」ジャンパオロは厳しく言った。

「ジャンパオロ閣下がシエーナにおいて御自身の安全を求める為に、そのような美しい御題目を口にされるのはご自由だが」アルディの主は辛辣に言った。

 数名の者が笑い、バリオーニは早口で悪態を吐き、そしてグイド伯爵は彼をなだめる為に割って入った。

「私自身は」フランチェスコ・ダルディは話を進めた。「個人の無益な犠牲には反対であり、この場合はその無益な例に相当すると考える。チェーザレ・ボルジアの側には、彼に心酔している数人のコンドッティエーロ(傭兵隊長)がいるのは諸君もご存知のはずだ。コレッラ、シピオーネ、デッラ・ヴォルペ、他にもいるが、彼等はチェーザレの死に対して必ずや報復を図るだろう。そして彼等が公爵の死に相応すると考える報復行為が手ぬるいものであるはずがない。ソリニョーラは地上から消え去るだろう。一町、一村も残らず――一人の男も残らず、そして女子供は彼等の慰みものとされるだろう。各々方、それを思い描く事ができますかな?」彼は問い、その問いに対する答は陰鬱な表情と沈黙だった。「だが私には代替案がある」彼は続けた。「これはより効果的に我々の難局を解決し、同じ結末へと導くはずだ、我々を――ソリニョーラを、アッシジとペルージャを。
「それは我々がヴァレンティーノ公爵を生きたまま捕らえて人質として拘束し、もし我々を包囲すれば彼の首を吊ると脅す事だ。これは彼のコンドッティエーリ(傭兵部隊)を抑止するだろう、その一方で我々は公使を教皇の許に送る。我々は、我々自身の生命と自由と引き換えに、教皇聖下に彼の息子の生命と自由を申し出るのだ、教会の支配からの恒久的自由を約束したブッラ(教皇勅書)と引き換えに。そして聖下の筆を速める為に、大勅書が所定の期間内に我々の手に入らない場合には、我々は即時、公爵チェーザレ・ボルジアの首を吊るであろうという脅迫を加える」

「実に巧妙だ!」バリオーニは叫び、他の者達も一斉に拍手喝采した。

「だが難点がある」フランチェスコは言った。「公爵の捕獲を如何にするかという問題だ」

「全くだ、うむ」パヴィアーノが悲観的に同意した。

「だが策を用いれば」とグイド伯爵は強く主張した。「彼を誘い込む事は可能かもしれぬ。何らかの――何らかの罠の中に」

「我々にはチェーザレ・ボルジア自身のような悪知恵が必要ですな」サンタフィオーラが発言した。

 そしてしばらくの間、彼等は無駄な議論の末に、まず一人が、それから次の者が提案を行った。しかしこれらの提案は全て実行不可能であるのが明白だった。半時間が経過しても彼等は一向に良策が思いつかず、いささか絶望の気配が漂い始めていた。マドンナ・パンタシレアがゆっくりと立ち上がったのは、その時だった。

 テーブルの端に立つ彼女は天板に軽く手を置いて朽葉色のドレスを纏ったしなやかな長身をわずかに前のめりにしていたが、その胸は上下し、顔は興奮で蒼白になり、潤んだ瞳は興奮で輝いていた。

「その務めに最適な者がおります」彼女はゆっくりと、抑制の効いて落ち着いた声で言った。「ソリニョーラの未来の女主人は、今この時にあって、ソリニョーラの救済者であるべきです。ゆえに私はここにおいて、己が統治者として正統なる事を証明しなければならないのです。いずれ来るその時の為に――神もし許したまわば、それは遠い未来の事でありましょうが」

 彼女の言葉の後に続いた完全なる驚愕による沈黙は、彼女の父親によってようやく破られた。

「パンタシレア?そなたに何ができるというのだ?」

「皆様のような殿方にはできぬ事。これは、女の武器が最も効果を発揮するであろう問題です」

 これに反対して一同は口々に抗議した。ある者は恐怖し、ある者は怒り、全員が興奮していた。ただ一人、バリオーニを除いて。バリオーニにとっては結果さえ伴なえば手段などどうでも良かった。

 彼女は沈黙を求めて手を上げ、場は静まった。

「ボルジアと私との間にはソリニョーラを救うという問題があります。これひとつだけでも私を駆り立てるのに充分な問題でした。けれど、それだけではないのです」彼女は死人のように青白さを増して、閉じた瞼を一瞬震わせた。それから自制を取り戻すと再び話を続けた。「ピエトロ・ヴァラーノと私は、この春に結婚するはずでした。そのピエトロ・ヴァラーノは三ヶ月前に市場で締め殺されました――ペーザロにおけるボルジアの裁きの場所で。これもまた私とヴァレンティーノ公爵との間の問題です。そしてこの復讐は、女の足だけが通る事のできる道を使って近付くという企みにおいて、私に強さを与えてくれるはずです」

「だが危険だ!」グイド伯爵が叫んだ。

「それは考える必要もない事。私に何の危険がありましょう?私はアッシジでは知られておりません。あの町にはほんの幼い頃に行ったきり。ソリニョーラですら私の顔を知る者は少ないのです。マントバから帰って以来、私は姿を見られる機会がほとんどありませんでした。そして私はアッシジでは細心の注意を持って行動します。皆様、そのような理由で私を止める事はできません。私はここに誓います。祖国の独立を護る為、何千という民の生命を救う為の任務に己の全てを奉げると。ジャンパオロ閣下のおっしゃる通り、国家の福利の為に犠牲を払うのは個人の義務です。今この時程、犠牲を払うに足る事態が他にありましょうか」

 男達は低くざわめき、彼女の父親を見た。彼が説得すべきだった。伯爵は頭に手を当て、じっと考え込んでいた。

「どのような――如何なる策をお考えなのです?」ジャンルカ・デッラ・ピエーヴェはかすれた声で問うた。パンタシレアの即答は、彼女が如何にこの問題を十全に検討していたかを示していた。「私はサンタフィオーラ配下のコンドッタ(傭兵部隊の兵士)十名程を農夫と従僕に変装させて、共にアッシジに向かいます。そしてソリニョーラがチェーザレ・ボルジアに反抗し、それにより公爵がアッシジに引き止められている間に、私は罠の中に彼を誘い込む方法を見つけます。彼の拘束に成功して後、ジャンパオロ閣下が私を待つシエーナに連行します。私の目的の為にはアッシジのそなたの館が必要です、デッラ・ピエーヴェ。私にあの館を提供なさい」

「あれを提供ですと?」恐怖しつつ彼は問い返した。「貴女を――貴女の比類なき麗しさを――チーズとして用いたネズミ捕りにする為に、あれを貸せと?そう仰せなのですか?」

 彼女は目を伏せた。深紅の血潮の色が彼女の顔に広がった。

「ソリニョーラは」と彼女は答えた。「侵略の危機にさらされています。この谷の何千という女子供が住処を失い、死や、死よりも悲惨な末路を辿る危機にあるのです。そのような時に、一人の女が些細な…」――そして彼女は再び視線を上げて、一同に対し挑むようにその目を光らせて――「一人の女が些細な恥辱を受けるだけの事に、躊躇する必要がありましょうか?その代償に、その女は余りにも多くのものを購う事ができるというのに」と言った。

 他の者達が返す言葉も見つからぬままにいる処で口を開いたのは彼女の父だった。彼は灰色にやつれた顔を上げた。

「我が娘は正しい」彼はそう言って――チンクエチェント(1500年代)のイタリア人としては奇妙な論を述べた。「これは我が娘に統治される為に生まれた民草に対する、我が娘の神聖なる義務だ」彼は一同に告げた。「男の力でヴァレンティーノ公爵に打ち勝つのは不可能である事は、今までの議論で明らかだ。デッラ・ピエーヴェ、そなたは館を提供せよ。サンタフィオーラ、そなたはパンタシレアが必要とする兵を」


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[註1]:Bernardino Luini(1532年没)。ルネサンス・イタリアの画家。多数の教会フレスコ画を手がける。代表作はルガーノにあるサンタ・マリア・デッリ・アンジェリ教会の『Passione e Crocefissione キリストの苦難と磔刑』他多数。

[註2]:virago 現代英語では「じゃじゃ馬」「がみがみ女」の意味で使われるが、語源はラテン語であり「男性的な女」が本義。


 無血開城したアッシジからは、チェーザレ・ボルジアの常の手法通りに武力征服の痕跡が全て周到に拭い去られ、さしたる波乱もないままに公爵による占領は平穏な日常の様相へと落ち着きつつあった。

 君主が死に、王座が零落によって砕け散り、王朝が交代しようとも、民は食べ、生活し、それぞれの日々の仕事に取り組まなければならない。かくして、一部の者達がヴァレンティーノ公爵チェーザレ・ボルジアに反感を抱きつつもアッシジに留まり、あるいは他国に亡命する一方で、大部分の市民は被征服者の義務として、ロマーニャの小規模な僭主制都市群を一つの強力な国家に再統合するという人生をかけた事業に取り組んでいた偉大なる名将に自ら帽子を脱いで頭を下げた。

 チェーザレ軍の半数は周辺の土地で野営していた。残りの半数であるミケーレ・ダ・コレッラ指揮下の兵達は、領主グイド伯爵に降伏を求める為に送られたチェーザレの公使に対して反抗的な返答を寄越したソリニョーラに包囲攻撃を仕掛ける為、既に進軍していた。

 ソリニョーラは攻めるに難い地であり、チェーザレは性急な行動には高価な代償が伴う事を良く知る賢明な将だった。アッシジは彼に快適な宿所を提供したが、其処は彼がフィレンツェやシエーナで確保していた拠点と同じく、このような事業を処理するにはうってつけの中心地にあった。彼は其処で、コレッラに指示したある任務の報告を受け取る為に忍耐強く待機していた。

 その任務の主な内容は、都市の南側壁の下、丘に両側を挾まれて頂上に建つ砦のほぼ真下に坑道を掘る準備に関するものだった。接近困難な地勢、そして守備隊の警戒と頻繁な出撃によって一週間を費やした頃には、このままのペースでいけばコレッラが城壁を破るまでには一ヶ月を要するであろう事は誰の目にも明らかになった。チェーザレは砲撃について検討してみたが、すぐにその考えを退けた。あの岩だらけの斜面では効果的な場所に砲台を設置するのは困難だ。

 ソリニョーラの頑強かつ無益な抵抗という問題はヴァレンティーノ公爵の興味をそそった。彼には確信があった。理解し難い事象には常に何らかの明白な回答が存在するはずなのだ。シニガッリアの事件以来、更に疑り深く慎重になっていた彼は、あらゆる手段を用いてその回答を求めた。

 豊かさを増す金色の日差しが春の近さを告げる二月初旬の晴れ渡った朝、チェーザレは華々しい騎手達に囲まれて市場からボルゴ(城市)へと向かう急勾配の坂を馬で下っていた。――彼の周りには鎧で身を固めた傭兵隊長達と絹を纏った侍従の集団が、そして彼の真横を進む雪のように白い騾馬の上には、緋色を纏った教皇特使モリーノ枢機卿の端正な姿があった。

 それはメンバーの大部分が若き公爵自身と同世代の若者で構成された賑やかな騎馬行進だった。コレッラの宿営地を訪問する為にソリニョーラを見上げる場所へと向かうこの集団からは、楽しげな話し声と笑いがこぼれていた。

 サンタ・キアラ女子修道会前の空き地で彼等の行進は一瞬、阻まれた。輿を置いた騾馬がサン・ルフィーノ大聖堂に通じる道路の一本に向かって進み、彼等の進行方向を横切ったのである。その騾馬は二人の従僕に伴われており、大きな葦毛の馬に乗った優雅な騎士は輿から離れた位置にいた。

 枢機卿はチェーザレと話をしており、そしてチェーザレの方は話題に然程興味のない様子で視線を彷徨わせていた。その視線はふと輿を捕らえ、其処に見たものに興味を引き付けられた。

 カーテンは既に開けられており、そして彼が視線を向けたまさにその瞬間に――彼にはそのようなタイミングに感じられた――その騎士は、彼が中に座している婦人を目視できるように前かがみになった。彼の視線を引き付けたのはその婦人の輝かしい美しさだった。そしてその瞬間に彼女の目、子供のように大きく一途な瞳が彼の視線と合った。

 小さな空間を介して二人の視線は交差し、そしてチェーザレは彼女の唇が驚いたかのように分かれ、彼女の頬が血の気を失い象牙色になるのを見た。敬意を示す為に――その女性個人に対してではなく、彼の一族の価値観は美を全ての徳の中で最も重視するものであるがゆえに、彼女の持つ美しさに対して――征服者は帽子を脱ぎ、愛馬の背に向けて深く頭を垂れた。

 熱弁に水を差された枢機卿は議論に対する無関心の表れたふるまいに顔をしかめ、更に公爵の関心が完全に他に移っている事を示されて渋面を深めた。チェーザレは彼に静かに尋ねたのである。「あの婦人、猊下は御存知か?」

 麗人に関する目ざとさについては有名な高位聖職者は即座にチェーザレの示す方を見た。しかしその瞬間にカーテンは再び落ち、彼の熱心な視線は困惑の中を彷徨う事となった。

 唇に微笑を浮かべたチェーザレはかすかに溜息を漏らすと、次に考え込んだ。この出来事に含まれたほんの僅かな変則的な要素に興味をそそられたのだ。彼は始めから彼女に見つめられていた、そして彼の視線に彼女は蒼ざめた。その理由は何だろう?以前に彼女に会った記憶はない。会っていれば、彼女の顔を忘れるはずがない。何故、彼の視線が彼女にあれ程奇妙な挙動を起こさせたのだろうか?男達が彼の前で蒼ざめるのは理解できる。それについては女達も同じではあるが。しかし、それには常に相応の理由があった。この場合、その理由とは何だ?

 その輿と従者達は裏通りの中に消えていった。だがチェーザレは未だ考え続けていた。彼は馬上で振り返るとアッシジの紳士の方を向いた。

「あの輿に付き従っていた騎士の特徴を御覧になられたか?」彼は問い、更に質問を加えた。「あれはアッシジの騎士だろうか?」

「おお、確かにそのようです、我が君」それが答えだった。「あれはジャンルカ・デッラ・ピエーヴェでございます」

「デッラ・ピエーヴェ?」チェーザレは考え込みつつ言った。「あれは参事会の一員でありながら、誓約が行われた際には欠席していた。成程!あの紳士と欠席の際の事情について知る必要があるな」馬を前に進ませてから、彼は鐙の上に立ち上がり傭兵隊長を呼んだ。「シピオーネ !」

 武装した傭兵隊長の一人が彼の側にただちに進み出た。

「そなたはあの輿と騎士を見たな」チェーザレは言った。「あの騎士の名はジャンルカ・デッラ・ピエーヴェだ。そなたは彼等の後を追い、あの婦人の住処を突き止めて報告するのだ。それと共にデッラ・ピエーヴェをこちらに連れて参れ。彼には市庁舎で私の帰りを待たせておけ。必要とあらば拘束してもかまわぬ。必ずや彼を連れて参れ。下がってよい。行くぞ、皆の者」

 バルダッサーレ・シピオーネは後に下がると、己の軍馬に拍車をかけて輿を追跡する為に駆け去った。

 チェーザレは前進し、他の騎手達は彼を取り囲んだ。しかし彼はあの疑問について考え続けていた。「彼女は何故蒼ざめたのだろうか?」

 理由。それを知れば、彼は自尊心をくすぐられたかも知れない。マドンナ・パンタシレアは、憎むべき怪物にして全イタリアにとっての災厄として語られるのを耳にした事しかない人物を策略によって破滅させる目的でアッシジに来ていた。彼女が目にする事を予測していたのは、病と天の報いによって年齢より老けて衰えた、不格好で醜悪な人物だった。その代わりに彼女が見たのは若々しい騎手であり、きらびやかな衣装と堂々として均整の取れた姿、そしてその容貌も今まで目にした事のある全ての男性達を凌駕する美しさだった。パンタシレアの目をまっすぐに見つめた彼の瞳の輝きは彼女の魂の中をじかに探るように思われ、彼女は目が眩み気が遠のきかけた。彼女はカーテンが再び下げられるまで眩暈から回復する事も、どんなに気品のある雄々しい存在であろうともチェーザレは彼女の一族の敵であり、あの男を破滅させるのが彼女の固く誓った崇高な使命であるのだと思い出す事もできなかった。

 騾馬が前に進むと彼女は輿にもたれて半ば目を閉じ、彼の視線が如何に熱心であったかを思い出して独り微笑を浮かべた。好都合だわ。

 輿のカーテンが外側からわずかに持ち上げられた。「マドンナ、我々はつけられております」ジャンルカがささやいた。

 彼女の微笑はより大きくなり、より満足げになった。事態はあるべき方向に加速していた。彼女はジャンルカにそのように告げた。

 彼女の微笑と彼女の言葉はジャンルカの怒りを燃え上がらせた――彼女がこの計画に身を投じたあの夜に火種が生まれ、それ以来燻り続けていた怒りであった。

「マドンナ」彼はかすれた声で叫んだ。「貴女のなさろうとしているのは、デリラのごとき妖婦の仕事ですぞ」

 彼女はジャンルカを凝視し、そして己の任務を表す残酷な真実の言葉に耐えてわずかに青ざめた。それから彼女は居丈高な態度によって己を護った。

「僭越な」パンタシレアは彼にそう言い、その答によって打ち据えられたジャンルカは自制を失った。

「我が身を省みず貴女をお慕いする程に僭越です、マドンナ」彼はほとんど怒ったように言葉を返したが、それでも従者達の耳に届かぬように声をひそめた。「それゆえにこそ、あまりにも不名誉な任務に没頭する貴女の御姿を見るのが耐えられぬのです。貴女の比類なき美しさを餌とした、卑しい――」

「おやめなさい!」彼が従わざるを得ない厳しさで彼女は命じた。

 言葉を選ぶようにしばし口をつぐんだ彼女は、最初の高慢な一瞥の後は彼を見ようとしなかった。

「身の程を知りなさい」そう告げた彼女の声は無慈悲なものだった。

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