自分の心を器にたとえたらどんなかたち?
浅井音楽さんという方の随想集『しゅうまつのやわらかな、』に収録されている「瓶いっぱいのからっぽ」というお話を読みました。
このような書き出しから、著者はひとまず空っぽの器を手に入れるべく、かっぱ橋へ向かう。その先で出会ったお店、そこで初めて見るかたちの器……と続いていくお話だったんだけれども。
わたしの心が器だとしたら、どんなかたちをしているんだろう?
わたしの心の器の表面(側面)は、たぶんちょっとぐにゃぐにゃしている。そこはまあ、しょうがないかなと思う。つるんときれいなかたちをしている人のほうが、少ないかもしれない。
問題は「底」で。
別に穴とか空いてはいないのだが、たぶん、底面が丸い。あるじゃないですか、底面が丸くてゆらゆらゆれるグラス。あんな感じ。
あれはあれで可愛いんですけども。
でも実際それが自分の心だと、可愛くもなんともなくて。揺れるんですよ。もうぐるんぐるんと。
まあ大人になってから勝手に揺れるぶんには……しょうがないかな……己を鍛えるしかないな……と思えているのですが、たぶん問題は幼少期から20代前半まで。何度もひっくり返された気がする。
そのくせ、あまりきれいではないものをドバドバ注がれていた。そのおかげで、内側があまりきれいではない時期が長かった。茶渋のようにこびりついたものもあった。きれいなものを入れようとしても濁ってしまった。加えて揺れるしひっくり返る。10代はぐちゃぐちゃだった。
20代に入ってからも、(DV男と付き合ってたんですけど)これまで注がれたものを入れ替えようと思って、結局よくないものを注ぎ込みまくっていた。
就職して、家を出て、心の器に、自分できれいなものを注ぐということを覚え始めた。
でも、内側が汚れていたその器をきれいにするには、きれいなものがあふれてあふれて汚れと一緒に出ていってくれるまで、注がないといけなかった。
すると、周りが何度もびしゃびしゃになった。
あまつさえ心はいまだに何度でも揺れた。
ひっくり返るかも、という恐怖を覚えながら、自分がきれいだと信じたものを溢れかえるまで注ぎまくる。そんな20代だった。
20代半ばを迎えた頃、その器に液体だけではなく、明確に固体をたくさん入れられるようになった。その固体とはすなわち「自分の書いた文章」である。文章自体は10代半ばから書いていたのだけど、それを自分の心の器に入れることはなぜかできなかった。書いても書いても満たされなかった。
自分の心の器に留めておけないものを、どうして書き続けていたのか今でもよく分からないけれど、20代半ばから明確に、それらを心の器に入れられるようになった。それらは飴玉のような大きさとかたちをしているので、器に詰めても少し隙間が空く。その隙間に、相変わらず自分がきれいだと思う液体を注ぎ込んでは、うっかり周りをびしゃびしゃにしたりしている。(もちろん日頃の仕事や人間関係で、きれいじゃないものを注がれることがある。だから、自分できれいなものを注いで中身を入れ替える作業が必要なのだ)
ちなみに、中に入れたものは脳や肉体に取り込める、たぶん。取り込んで、エネルギーみたいに使って、するとまた器に空間ができるので、新しいものを入れたり注いだりすることができる。
自分にとって心の器はこんなイメージなんだけど、かたちの話に戻ると、とにかく底が丸いな! ぐらんぐらんしてるな!
側面がぐにゃぐにゃしているのは前述の通りたぶん人それぞれそうで、だから【自分のそのぐにゃぐにゃに合った】考え方とか書き方とか生き方とかを、各々それぞれ見つけていく必要があるんだと思うし、それが心を持って生まれた人生の醍醐味の一つなんだと思う。
あとは……色や材質なんだけど、わたしのはフツーに透明のイメージだな。でもちょっと厚くて重めのガラス。正直20代前半までに何度もぶん投げられて傷がついてるけど、厚かったおかげで割れないでいられた。側面がぐにゃぐにゃしているので、転がり方が変だったけど。
できたら今後、器のフチに、真鍮製の輪っかをつけたい。でもいかんせんぐにゃぐにゃ器なので、フチもぐにゃぐにゃしており、ぴったり合う輪っかを見つけるのが難しい。自分で作っていくしかない。自分にとって、心の器のフチを飾るものってなんだろう?
そんなことを考えた随想集。冒頭で紹介したお話は、サンプルでも読めます。(アフィリエイトリンクではありません)
個人的には、眠る前のお供に少しずつ読むのがいい感じです。
自分の心の器のかたちについて、どなたか考えたらこっそり教えてください!