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海の中で

太陽が沈んだ後、街は海の底へ沈んだ。紺色に染まってゆく空はそこに在ったはずのものを陰のなかへおくりこみ、わたしもわたしの周りのものたちも大きな海のなかに放り込まれ、気付けばとなりに居たはずの君もあなたの目の中のわたしも消えていた。
身体が暗闇へ吸い込まれてしまった今、記憶だけがわたしと思う。海中で朧げに映し出される映像を眺めていると、そこに何らかの印を持つじぶんたちを見つけるのだった。

ある朝、市場で買ってきたラベンダーの花を贈られ花言葉に鬱陶しさを覚えたこと、気に入らない香水の佇まいが美しく捨てられないでいるひとりの夜、大好きな人と最後に交わしたメッセージを左手の指先がいとも簡単に削除した昼下がりの窓辺 ー そんな印たちを。

今、ここから訊いてみるの。愛おしくてたまらなかったもの、大好きな人、きらいなもの、本当にその時あったのかしらと。今は何かが違ってしまってみえるから。
何も返事はなくても、その印がたとえ、どんな歓びやどんな痛みであっても、そこにはたしかに体験したという痕があり、かつての眩しさを失っても、ことばに置き換えることの出来ないあたたかさがあるのだった。そして、それを振り返ることができるのは、どんなときもわたし自身だけなのだ。そう思うと、もうすぐ沈んでしまう太陽を見送っているような愛おしさがおなかの中から込み上げてきて、わたしは息を止めてしっかりと飲み込んだ。

すべてを包む海のおかげなのかしら、そんな自分と出逢えた今日は。陰の中に消えたわたしと隣にいたあなたの身体もきっと、果てしなく尊いなにかを刻み続けたかけがえのないものでいっぱい。そして、きっと、身体も心もわたしもあなたもまた朝が来るのを待っている。


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