大河ドラマ「どうする家康」第18回雑感 ~武田軍の陣形から見た三方原の戦い~
元亀3年12月22日、武田、徳川の両軍は三方原台地で激突。
武田軍は「魚鱗の陣」を敷き、一方徳川軍は「鶴翼の陣」を敷いたという。
一般に敵よりも兵力が劣っている時、戦力を集中させ前方中央の突破を図るとき「魚鱗の陣」を敷き、逆に戦力が敵を圧倒する場合は敵を包囲するよう「鶴翼の陣」を敷くことが陣形の常道とされる。
にもかかわらず、本合戦では、武田軍が兵力的に圧倒する戦況において、武田軍は「魚鱗の陣」、徳川軍は「鶴翼の陣」と、常道に反する形で両軍が陣形を敷き激戦が繰り広げられた。
その理由は諸説あるようだ。
武田軍が徳川軍の兵力を把握出来ず、織田援軍を過大評価してしまった。
まさか寡兵で野戦に挑んで来るとはさすがの信玄も思わなかった、挑んで来るからには、徳川軍はそれなりの戦力であると誤認してしまったのだろうか。
一方の徳川軍は少ない兵力を多く見せかけるためであったとも言われる。
真実はどうかはわからないが、本合戦の開始時刻が、申の刻、午後4時であったことに注目したい。
12月の午後4時といえば、冬の短い日が落ちようという辺りは薄暗くなっている状況である。
完全に日が落ちてしまえば、徳川家康を戦場から取り逃がしてしまう可能性が高くなる。(実際に浜松城に撤退を許してしまった)
更に言えば、闇夜の中では地理に疎い武田軍の追撃は困難を増す。
戦いの時間は少ない。
そこで、信玄は、あえて自軍に魚鱗の陣を敷き戦力を集中させて、中央に布陣すると思われる徳川本隊に突っ込ませ、短時間での速攻決戦を挑んだのではなかろうか?
戦いは乱戦になり、多くの徳川の兵は討ち取られたが、闇に紛れ、家臣に守られながら家康は何とか無事に浜松城に逃げ帰ることができた。
いかに精鋭の武田軍あっても、徳川家忠臣の踏ん張りもあって、真っ暗闇のアウェーの地での家康追撃は難しかったようである。
「甲陽軍鑑」には、武田家重臣馬場美濃守の言が記載されている。
「此度の戦で討死した三河武者どもは、将から雑兵にいたるまで戦わぬ者は一人もおりませなんだ」
「屍を見れば、頭がこちらを向いていた者は皆うつぶせ。逆に頭が浜松を向いていた者は、皆あおむけに死んでおり申した」
「つまり、誰一人として逃げ出すことなく死ぬまで戦った証しに他なりませぬ」
勝ったとはいえ、三河兵の不屈の強さを実感したのである。
更に浜松城攻めを実行して、果たしてどれ程の兵力と時間を費やすことになるのか?
病を抱える信玄に残された時間も少ない。
三方原には、織田本隊はいなかった。
織田軍の動向も気掛かりである信玄は、更に西に進むのであった。