
以下、エピローグというより、蛇足さながらの、伊藤くんが文芸部の部誌に書いた「ピアノ・レッスン」という小説
ピアノ小説であり、音楽小説である。ごくごく短い作品で、奇妙な味の短編でもある。私の本、「極北 私がいなくても、あなたがいれば」に収められている。
12月4日に私の新刊「郵便小説 ぴむぽむ 空豆少女」が発売される。緒 真坂とは、どんな小説を書く人間なのか。そのショーケースとしても読んでいただければと思う。
🎹
ぼくが世界的に有名なピアノ・コンクールで優勝したとき、日本の新聞記者がどっと押 し寄せてきた。そして、大波がきたかのようなたくさんの質問を受けた。
そのなかにはこんなのがあった。
「あなたのピアノは、まるで聴き手に直接、語りかけてくるような気がします。いったい どのような練習をすればそんなふうにピアノを弾けるようになるのですか?」
そのとき、ぼくは、曖昧に笑って答えなかった。その質問者はぼくが照れて、韜晦しているのだと思ったかもしれない。でも、そうではない。
その質問に正確に答えるにはきみと出会った、ぼくの奇妙な体験を話さなければならな かったからだ。
だが、そのことをどれほど正直に語ってもたぶん誰も信じてはくれないだろう。
ただこれだけははっきりといえる。あの体験がぼくを本物のピアニストにしてくれたのだ。きみに出会わなかったならば、ぼくは、きっと本物のピアニストにはなれなかっただろう、と。
きみに初めて出会ったのは、ぼくがまだ小学四年生のときのことだった。
ぼくは、ピアノ教室に通っていたが、いくら練習をしても、先生からいわれたとおりにピアノを弾くことができなかった。
これはきっとピアノを弾く才能がないせいだと思い、ピアノに向かうことがどんどん憂鬱になっていった。
ピアノ教室は、家の近所にあったが、ときどき通り越して、遠くにある公園まで歩いていった。
本当に苦しいときは、ピアノ教室の時間が終わるまで、公園のブランコに座って、時間をやりすごした。
そんな、ある日のことだった。
「おい、情けないぞ」
ブランコに座っているぼくの耳に、囁くような、低い声が聞えてきた。
ぼくは、はっとして公園をきょろきょろと見まわした。若いママが幼児をジャングルジムの前で遊ばせていた。
「元気を出せよ」
もう一度、声が聞こえてきた。ぼくは、声がする方向を見た。地面から聞えてくるような気がしたからだ。でも、そうではなかった。
ぼくの十本の指がしゃべっていたのだ。
それがきみと出会った最初だった。
「おい。元気を出せよ」
きみは、そういった。
ぼくがむっとして無言でいると、きみはいった。
「たかがピアノのことじゃないか」
「たかがピアノっていうけれど、ぼくにとっては大事なことなんだ。みんながびっくりするくらいうまく弾きたいんだよ」
ぼくは、幼い競争心を剥き出しにしていった。しばらくきみは、考えこんだように黙っていたが、やがてぽつんといった。
「わかった。おれにまかせろ」
「まかせろって、どういうこと?」
「おれがピアノを弾いてやるよ」
「どうやって?」
きみがピアノを弾くなんて話は聞いたことがない。いや。もちろんきみがピアノを弾くのだが、それでも、結局は、このぼくが弾いているのだ。
「おいおい。忘れてもらっちゃ困る。おれは、おまえの指なんだぜ。おまえがしっかり楽譜を読んでくれさえすれば、あとはおれがなんとかしてやるよ」
「そんなことができるものか!」
ぼくは、本気になって怒っていった。てっきりからかわれていると思ったからである。
「できるかできないかは、おまえ次第だ。おれのいうとおりにしていればいいのだ」
きみは、自信ありげにいった。
ピアノ教室に遅刻して行ったぼくは、ピアノのいすにどかっと腰をおろした。すでに暗記している楽譜をじっと睨んだ。
そうすると不思議なことが起った。ぼくの指が鍵盤の上を早春の風のように、さらさ らと駆け抜けていったのだ。
まさに楽譜の指示どおりに。
「まあ、すごい! きれいに弾けた。なんだ。やればできるんじゃないの。ずいぶん練習をしたのねえ〜」
でもじつのところ、びっくりしたのはぼくのほうだった。指が勝手に動いて弾いていたのだから。
ぼくは、あらためてじぶんの十本の指を眺めた。
「どうだい、おれのいったとおりだろう」
きみは、誇らしげに自慢した。
それからのぼくは、周囲から絶賛の嵐に見舞われた。みんなが口々にぼくのピアノを褒め称えたのだ。
ぼくは、罪悪感を覚えたが、本当のことはいえなかった。もっとも本当のことをいって も誰も信じてはくれなかっただろうけれど。
結局のところ、弾いているのは、ぼくの指なのだから。ぼくが弾いていない、ともいい切れなかったのだ。
「どうして急にそんなにうまくなっちゃったの?」
ピアノ教室の仲間から羨望のまなざしで尋ねられたときは、
「毎日、何時間もピアノのまえに座って、血のにじむような特訓をしたのです」
十本の手の指をそっと撫でさすりながら、ぼくは、わざとらしく謙虚に答えた。
ある日、女の先生がやってきていった。
「三か月後に、行われるピアノ・コンクールに出てみない?」
そのコンクールはぼくが前々から出たいと思っていたコンクールだった。ピアノを習っている小学生のあいだでは、あこがれのコンクールである。
「いまのきみの腕前なら優勝できるかもしれないわよ」
先生はいった。
「がんばります!」
ぼくは、元気いっぱいに返事をした。
そして小声できみに向かっていった。
「がんばってくれよ」
「まかせておいてくれ。完璧に弾いてみせるから」
きみは、自信満々にそういった。
ぼくは順調に予選を勝ちすすみ、グランド・ファイナル当日、出場者の控室で、順番を 待っていた。心臓が早鐘のように高鳴っていた。
ぼくがピアノを弾くわけではなかったが、プロのピアニスト然としたほかの出場者のなかに混じって座っていると、ひどく場違いなところにいるように思われて、たまらなく不安だった。
ぼくは、きみに小声で話しかけた。
「いよいよだ。準備はどうだ?」
指からの返事はなかった。
「おいおい。冗談はよしてくれ」
心細くなったぼくは、おたおたしていった。ほかの出場者が怪訝そうな顔をして振り返った。
そのとき係員が控室にきて、ぼくの名前を呼んだ。出番がきたのだ。
「はい」
ぼくは、小声で返事をすると、立ちあがった。通路を歩きながらぼくは、きみに向かって小声で呼びかけつづけた。でも、やはり返事はなかった。
「おいおい。やめてくれ。たちの悪い冗談だぞ」
ぼくは、いまにもわっと泣き出しそうだった。
ぼくには、わかっていた。そう、心の奥底では、実は、とっくにわかっていることだったのである。ぼくは、偽者だ。指と心が、ばらばらなのだ、と。
ステージの中央まで歩いて行って、グランドピアノの前のいすにすわった。会場はカタンとも音がなく、しーんとしていた。
ぼくは、指を鍵盤にあてて静かに押した。
ぽろろん、と音が鳴った。
その時を境に、きみは、ぼくに話しかけなくなった。ただの、十本の指になった。講評のとき、審査員にいわれた。
「きみは、楽譜を正確に弾いてはいるが、心がぜんぜん入っていません。相当なテクニッ クを持っていることは認めましょう。でも、音楽は、それだけでは人を感動させることは できません。きみは、音楽が好きですか?」
ぼくは、頬を真っ赤にしてうつむいた。
「まずきみが、最初にやらなければならないことは、きみ自身が純粋に音楽を好きになり、 楽しむことです。虚心に、音楽に耳をかたむけることです。きみは、指に無理矢理弾かされています」
たしかにそのとおりだった。
ピアノを弾いていたのはぼくの指だった。指先だった。
ぼくには、それが、最初からわかっていたのに、やらなかったのだった。
技術より、心のほうがややこしい。鬱陶しくて、面倒くさい。なかなかたどり着けない。しかも、時間がかかる。
「作曲家が表現をしたかったことは何か、そのことをもう一度よく考えてみながら、ピアノに向かってください。音楽にとっていちばん大事なことは、本当は、楽譜には書かれていないのです」
審査員は最後にそういって結んだ。
当然のことながら、そのピアノ・コンクールでは、優勝はもちろん、入賞すらしなかった。
ずいぶん昔のことなので、ところどころ記憶が曖昧になっているけれど、そのコンクールでの落選以来、ぼくのピアノに対する取り組み方が変った。
音楽は指先で奏でるものではない。心が大事なのだ。ピアノを弾く技術と心が溶けあって、みごとにバランスがとれたときに、音楽は、その本来のすがたをあらわす。
聴く人間の心をつかんで揺さぶり、深い感動を呼び起こすことができる。
きみと出会った体験を思い出すたびに、ぼくは、傲慢で幼稚だった自分を恥じ入る気持とともに、音楽に対する自分の姿勢が厳しく問われている気がして、身がぎゅっとひきしまる思いがするのだ。
いいなと思ったら応援しよう!
