レポート | アドバンスト・ケア・プランニングから考える、見せかけの自己決定
自分である決断をするとき、その決断は、自分で主体的に考え、選択し、決定した結果だと私たちは考えがちです。でも、本当にそうでしょうか。
私は、いとちプロジェクトであるワークに参加し、決断というものは、「これまでの環境や経験から、そう選ばざるをえなくなったもの」だと考えるようになりました。こう考えるようになったきっかけが、いとちワークで日常的に使われている「どせばいい?カード」でした。いとちインターンの小林歩記がレポートします。
どせばいい?カードとは何ぞや?
いとちプロジェクトでは、毎週火曜日、研修にやってくる学生向けに「いとちワーク」という、地域医療や総合診療を学ぶ時間を設けています。「どせばいい?カード」は、いとちでは、外が暑すぎたり雨が降ったりして「まち歩き」ができないときなどに活用されているカードゲームです。
と言っても、私たちが作ったものではなく、青森県の社会福祉法人中央福祉会が制作したもの。カードを使って遊んでいるうちに、人生の最終段階で受ける医療やケアなどについて、患者本人と家族などの身近な人、医療従事者などが事前に話し合う取り組み「アドバンス・ケア・プランニング(人生会議)」の体験ができる内容になっていて、「死」について、あまり深刻にならずに話し合うことができることから、コミュニケーションツールとしても役立てられています。
カードは50枚あり、「最期までオシャレをしたい!」「ユーモアと笑顔を持ち続けたい!」といったような思いや価値観がかかれています(実際には津軽弁で書かれています)。
ゲームでは、手持ちのカード5枚と山場のカードを見比べて交換しながら、自分が大切にしたい価値観カードを手元に残していきます。山場のカードが全部なくなったら、手持ちの5枚から特に大事にしたいカードを3枚選び、メンバー同士でなぜその3枚を選んだのか、理由や考えの背景などについて対話していきます。
ゲーム中、対話はずっと続きます。たとえば、「最期までオシャレをしたい!」のカードと、「ユーモアと笑顔を持ち続けたい!」のカード、どちらを選ぶか悩むとしましょう。
持ち主:「自分はあまり深刻になりたくないんで、ユーモア選びます」
Aさん:「うわー、私はオシャレしちゃうかも!」
Bさん:「ユーモア、わかるなあ、自分もそのカード欲しかったなあ」
などとといった具合に、最期の瞬間をどう迎えたいのかを想像して悩み、その悩みを語り合いながら、一人ひとりがカードを選択していく。その人の死生観が垣間見えるような時間になるのですが、津軽弁のおかげでほんわかするような雰囲気で対話が進んでいくんです。
自分の体験とは「反対」の未来を望んでいた
カードを選んだ理由を言語化しているときに気づいたことがあります。人がカードを選ぶ理由に、自分の過去や現在の経験や環境が関係してくるということです。
私は前回の「どせばいいカード」を使ったワークで、最終的に「息が苦しくない!」「私の死を不安なく受け入れてほしい!」「いい人生だったと思いたい」の3枚を選択しました。
1枚目の「息が苦しくない!」を選んだ背景には、私が過去に過呼吸の状態になってしまった経験があります。息が苦しい状態だと、好きなことをやる体力も、誰かと話す気力もなくなってしまい、そのときに感じたしんどさ思い出しながら、このカードを選んでいます。
2枚目の「私の死を不安なく受け入れてほしい!」を選んだ背景には、家族の死を自分は受け入れられるのかという不安な気持ちがあります。私は、過去に家族から虐待を受けた経験があり、家族と離れて暮らしているのですが、家族に対してトラウマを抱いているなかで、家族に万が一のことが起きたら、その死を受け入れられるのか…。せめて、自分が死ぬときが来たら、周りの人たちには、今の私のような不安を抱いてもらいたくないなと思っていて、このカードを選びました。
3枚目の「いい人生だったと思いたい!」を選んだ背景には、私自身が置かれていた生活環境や家庭環境があります。家族に対するトラウマや、大学生活を送るために週6日も働いたりしていたことなどを、どうしても思い出してしまいます。つらい時期があったからこそ、「最期にはいい人生だったと思いたい」と強く感じて、このカードを選択しました。
当たり前のことかもしれませんが、カード1枚選ぶのにも、その自己決定には、過去の経験、自分の置かれた環境が影響してしまうということを、私は「どせばいいカード」をやりながら感じていました。自分は自ら進んで選んでいるのか、選ばされているのか、よくわからなくなってしまった。そう言っていいかもしれません。
もうひとつ、気づいたことがあります。
それは、自分の最期の瞬間には、自身の経験・環境とは対局にある価値を望んでいるのではないか、ということです。自分にはこんなつらいことがあったから最期はそんな思いをしたくない、あんな苦しい思いはイヤだな、という結論の出し方をしているように感じられました。
たとえば、ある医学生は、「おむつよりトイレで排泄したい!」カードを選んだ理由として、過去に排泄援助を受けている高齢者の話を聞いたことを挙げていました。おむつを履くことに関して「自尊心が大きく傷つけられる出来事だった」という言葉を自分に重ねて想像した結果、「トイレで排泄できる最期」を選んだのだと思います。
「無益な機器に繋がれていない!」というカードを選んだ学生は、ある映画を見たことを語っていました。その映画には、多くの機器につながれ、最期は顔がパンパンに膨れ上がってしまった高齢者が登場したそうです。映画を見たという経験が、「健康な身体で最期を迎えたい」という思いにつながり、「無益な機器につながれていない」というカードを選ばせた。私はそう感じました。
当たり前を疑うこと
一方で、自身が体験したこと、現在の環境と同じ環境を、最期まで望む人もいます。
ある学生は、「残された時間を家族と過ごしたい!」というカードを選びました。家族はやっぱり暖かい存在だから、という理由でしたが、家族とあたたかな関係を築けているからこそ、家族を大切にしたい、家族と過ごしたいというカードを選んでいるのだと思います。
同じように、たとえば「仕事・趣味を続けることができる!」を選んだ人がいるとしたら、その人はきっと、今現在、好きなことを仕事にできていて、充実感を感じているはず。だからこそその人は、将来も充実した時間を過ごしたいというカードを選択するわけです。
このように、今と同じような最期、自分の体験と地続きにあるような未来を選びたい人は、すでに大切なものを見つけられている状態、好きなことを仕事にできている状態があるからこそ、それを望んでいるのだと言えると思います。
ただ、ここで考えたいのは、こうしたカードを「当たり前に」選ぶことができていること自体、とても恵まれている状態にあるということ。それを忘れてはいけないと私は感じます。
家族は大切なものだから、家族と一緒にいるのがいいに決まっている、とか、自宅は居心地がいい場所だから、最期はだれもが自宅で過ごしたいはずだ。とか、趣味を持つのはすばらしいし、最期の瞬間まで自分の好きなことをしたいとだれもが思っているだろう……とか。
多くの人が、常識的にそう感じると思います。ですが、それが叶わなかった人や、そうとは思わない人も社会には存在します。人生の最期の瞬間をどう迎えたいか。きっとそこには、その人の人生観、死生観、これまでの人生体験が溢れ出てしまう。だからこそ価値観がぶつかり合う。常識的に考えてこうに決まっているという価値観を押し付け合ってしまっては、本当に望ましかった最期を迎えることは難しくなってしまうかもしれません。
同じカードを選んだとしても、過去にそうじゃなかったらそう願う人と、過去もそうだったからそう願う人では、経験や環境、至高のプロセスは真逆なのです。
自分がいま、なぜこのカードを選んでいるのか。一歩立ち止まって、自分のなかの「普通」を疑ってみること。自分が当たり前だと思っていた環境、経験は、じつは自分で主体的に手に入れたものではなくて、運に恵まれただけだったかもしれないと捉え直してみること。だれかの自己決定は、見せかけのものかもしれない。そんな思考が、アドバンスド・ケア・プランニングでは大事になってくるのではないでしょうか。
いとちワークは、あくまで「ワーク」ですから本当に死を迎えているわけではありません。ゲームです。それなのに、これほどまで、人の考えていること、体験してきたことが現れてしまう……。
そうだとしたら、現実のアドバンスト・ケア・プランニングは、さらに複雑な感情が溢れ出てくるはずです。現在の選択や決断の背景には、患者さんの過去の経験や現在の環境があるということを忘れずに相手と関わること。その大事さを「どせばいいカード」から学びました。