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レポート | 保育園の遊びに見つけた医療

いとちプロジェクトでは、かしま病院に実習にやってくる学生たちが実践的に地域医療を学ぶ「いとちワーク」というプログラムを実施しています。毎月3週目の舞台は、なんと地元の子どもたちが通う保育園。一見、医療とは無関係のようにも思える保育園で、なぜ実習が行われているのでしょう。実習の様子を、いとちインターン生の小林歩記がレポートします。

幸せづくりも医療のうち?!

午後2時。集合場所となっているかしまホームに、学生たちが続々と集まってきます。まずやってきたのは医学部生、薬学部生、初期研修医たちですが、それに加え、いわき市在住の病院の事務スタッフ、地域住民なども集まってきます。医療だけではなく、「地域」の専門家が集うからこそ、大学の授業とは違った視点を学べる場になっている。それがいとちの特徴です。

この日のワークの内容は保育園での実習です。内容はとてもシンプル。保育園の元気な子どもたちと1時間ほど一緒に遊ぶ。ただそれだけの実習です。

子どもたちと元気に遊ぶ、それだけの実習

学生たちには、最初から保育園に行くことが伝えられているわけではありません。ワークが始まると、講師からいきなりそう告げられるのです。なので毎回、ほとんどの学生が「なんで保育園に行くのだろう」と不思議そうな表情をするのですが、たしかに「??」になりますよね。

保育園と医療は、ほとんど関係がないことのように私には思えます。ワークの冒頭、いとちワークの講師を務めている小松理虔さんから、こんな視点が示されます。

小松「患者さんの人となり、人生、家族、仕事などの患者さんを取り巻くコンテクストを理解することが大事。そのうえで診察することで、患者さんの幸せに寄与することができるはず」

小松さんによれば、この「コンテクストの理解」「幸せへの寄与」という言葉は、かしま病院の総合診療医の先生のプレゼン資料から拝借してきたものだとのことですが、医療というものは、患者さんの病気を治すだけではなく、幸せに関わるものであるようです。ただ、それが病院の外にある保育園にどうしていくのか・・・。謎は深まるばかりです。

生活の中にも医療はある?

保育園に向かう前、毎回、少しだけ対話ワークショップが行われます。この日は、小松さんから「自分にとって医療とはなにかをまずは言語化してください」というお題が与えられました。この問いに対して、全員が自身の考えを短時間でまとめ、発表していきます。

地域住民の側からは、「お金もかかるし待ち時間も長い」とか「普段の生活からは遠いもの」、「いざというときに助かるもの」といった意見が出てきました。医療というのは、生活とは距離があり、あくまで緊急時にお世話になるものといった印象を抱いている人が多いように見受けられました。

一方、医療の側からもいろいろな意見が出ましたが、私が個人的に印象的だったのは、「皆さんが健康に生きていけるようにするものであり、退院後の生活や再発した際に気づいてくれる人がいるのか、といったことにも目を向けていきたい」といった意見でした。病院の外にある「生活」にまで目を向けていることがわかり、意外に思えたのです。

患者さんの病気だけでなく、患者さんの幸せに寄与するのが総合診療なのだとするなら、病院外の「生活」に着目するのは自然なことです。生活は退院した後も続くからです。とすると、子どもたちの生活の場である保育園での実習にも、総合診療について考えるヒントがあるかもしれない。そんな想いを抱きながら、保育園に向かいました。

聴診器に興味津々の子どもたち

遊びの鬼になる

到着するや否や、子どもたちが学生たちに駆け寄ってきました。お兄さん、お姉さんに興味津々なようで、物怖じせずに次々と話しかけてくれます。

「外に出て鬼ごっこしようよ!」「おんぶして!」「私が描いた絵を見て!」

私は、気づいたら鬼ごっこの鬼になっていました。捕まえては、捕まえられての繰り返しです。園庭の隅から隅まで走り回っても生き生きとした笑顔を浮かべている子どもたち。私も必死に走り回りましたが、体力の差を感じる一幕でした。

蒸し暑い日でも、子どもたちは容赦ありません・・・・
アマガエルを捕まえた男の子。カエルを見せてもらいました!
子どもたちを抱えて何度もダッシュ!

私は学童クラブでもアルバイトをしていて、子どもたちと遊ぶのは全然平気なのですが、子どもたちと日常的に関わっているわけではない学生たち。最初は戸惑った様子が見受けられましたが、子どもたちのペースにのまれた結果、最後には汗をかきながら全力で遊ぶ状態に。

保育園の先生たちは、子どもたちの安全に目を向けながら、おやつの準備などもしなければなりませんから、自分のやりたいことに付きっきりで相手をしてくれる学生の存在は、子どもたちにとっても、先生たちにとっても貴重な存在なのかもしれません。

遊んでいると、子どもたちの表情にもみるみる活気が出てきて、学生たちが到着したばかりのときよりも生き生きとして見えました。

子どもたちが、より子どもらしい表情になる。生き生きとした様子になっていく。元気が出てくる。ただ遊んだだけですが、子どもがより健康的な状態になっているように感じました。それを見て、これは形を変えた医療なのかもしれないと私は感じました。なぜなら先ほど、医療とは「患者さんの幸せに寄与すること」であり「健康に生きていけるようにするもの」だという話をしていたからです。

もちろん、幼稚園児は病気をしているわけではないし、なんらかの症状があるわけではありません。それに、遊ぶこと=医療ではないことは、誰の目から見ても明らかです。でも、子どもたちがより自分らしくいられるよう、遊びという「処方」をし、その処方を私たちが実践しているんだと考えると、なんだか、医療というのは病院にだけあるわけではない、という気持ちになってきます。

遊びの鬼たちに追いかけられる学生たち

医療という言葉を拡大解釈してみる

かしまホームに帰ってきたあと、小松さんから「医療をめちゃくちゃ拡大解釈して、“よりその人らしくいられるようにすること”だとすると、遊びのなかでできることもあるんじゃないか」というような話がありました。

さっき、私が感じたことにも通ずる話でした。医療という言葉の解釈を、先ほど紹介した家庭医の考え方を踏まえて「その人の幸せを築くこと」「よりその人らしくいられるようにすること」だと捉えると、医療は保育園のような日常生活の場にも出現するものになり、私たちにも関わりしろが生まれていく。そう言えないでしょうか。

私が保育園で感じたのは、医療には、専門的な技術や知識が必要な領域だけでなく、誰もが関わることができる福祉的な領域があるということです。薬の処方や手術は医師にしかできませんが、遊ぶこととか、話すこと話を聞くこと、そういうことが効果を発揮するかもしれない領域があり、そういう領域になら、私のような非医療系の人材にも関わることができる・・・。

そう拡大して考えてみると、医療と無関係な人はいない、とも思えてきます。医療とは、私たちが考える以上に、広い捉え方のできる言葉なのかもしれません。私たちも、日常生活の中で身近な人の「幸せ」を支えることができるはずです。お隣さんに挨拶をしてみることなど、できることから始めてみてはいかがでしょうか?

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