「人に興味がない人」が変われる方法を考える
人に興味、ありますか?👀
改めて問われると、そもそも「人に興味がある」という状態すらイメージが曖昧で、何を指しているのかもよくわからなかったりしますよね。
また「人の噂話が好きな人」といった、ややネガティブなニュアンスに捉えられるケースもあるかもしれません。
それはそれで「興味がある」とも言えそうですが、個人的には興味の矛先が少し違うような気がしています。
(自分の保身に興味があるか、他者の価値に興味があるか…)
なので、今回は「人に興味がある」という言葉を「目の前の相手の話に価値を感じる(耳を傾けたくなる)」という状態と定義して話を進めます。
「人に興味がある」と話すと「そっかぁ。私は全然わからない」と言われることがよくあります。
実際、人に興味がない人はそれほど珍しくはありませんし、かつての私もその1人だったと思います。
それでも、やはり人への興味はあるに越したことはないと思うのです。
なぜなら、私たちは人との関係性の中で生きていて「人への興味」は時にその関係を円滑にするための重要な役割を果たすためです。
とはいえ「どうしようもないよ、だって興味ないんだもん」という気持ちもわかります。
そういう方はどうしたらいいのでしょうか?
私なりに考えたことを書いてみます。
なぜ、目の前の相手に興味を持てないのか
皆さんにとって「この人の話を聞きたい」と思う人は誰で、どんな人ですか?
自分の目指す方向で成功している人
尊敬する上司
推しのアイドル
誰もが知る芸能人
「人に興味がない」側の方にも、誰かしらこういった「興味を持てる人」が少なからずいるのではないかと思います。
じゃあ、なんか知り合いの友達くらいの設定で、目の前に大谷翔平さんが現れたらどうですか?
彼の話す一語一句、ひとつも取りこぼさない勢いでめちゃくちゃ耳を傾ける気がしませんか?
それはおそらく、大谷翔平さんを「すごい人物」だと思っているからです。
人に興味を持てない方は、
どんな人にも秘められている「すごさ」に気づけていない可能性があると思ってます。
「不知の“不”自覚」
「不知の自覚」という、古代ギリシアの哲学者ソクラテスが提唱した概念があります。
自分が「気づいていない領域」がこの世に当たり前に存在することを、自覚しているかどうかということです。
「自分に知らないことがあるなんて、当然でしょ」と思われる方が大半だとは思いますが、
自分の中の「気付いていない領域」への捉え方や広さは、人によって様々である気がしています。
「これは知ってるけど、あれは知らない」という、知らないことに気づいている未知だけでなく、
そもそも知らないことに気づきもしていない未知が、この世の大半を占めているという事実を深く認識しながら生活している方はどれだけいるでしょうか。
そしてその「知らないことに気づきもしていない未知」に気づくきっかけを与えてくれる存在こそが、他者なのです。
他者は必ず、自分に見えていないものを見ている
どれだけ優秀な人であってもこの世の全てを知ることはできませんし、人は自分が「認識しているもの」しか見ることができません。
そして認識に必要なのは、それに準ずる「経験」です。
例えば、自分が過去に経験したことのある仕事に従事している方に、普段以上に親切にしたくなったことはありませんか?
それはあなたの経験上、その方の仕事の裏に存在する様々な苦労をありありと目に浮かべることができるからです。
結局、自分が今見えている世界や思考の材料は、すべて過去の経験から得たものの範囲内でしかなく、この世の全てではありません。
そして他者のビューは、自分とはまるで異なる生まれや育ちの中で培われたものであり、似たような経験が一部重複することはあっても100%同じであることはありえないのです。
他者は必ず、自分には見えない世界を見ています。
そして他者のビューを借りることで、自分の視野は確実に広くなります。
そう考えてみると、他者の見ている世界にほんの少しでも興味が湧いてきませんか?
これこそが、人に関心を抱くことができない人が見落としている視点なのではないかと私は考えています。
不知の自覚を持つ人は、どんな人にも自分に見えていないものを見る能力があることを知っており、自分の想像の範囲で「この程度」と決めつけて見限ることはしません。
人は自分を肯定したい生き物
とはいえ、私は「人に興味のない人」を否定したいわけではありません。
当然「(興味は)ないよりあった方がいいよね」という意見ではあるのですが、興味を持たないことが必ずしも愚かだとも思いません。
なぜなら、それは人間にとって当たり前のことだからです。
どんな人にも「自己保存」という防衛本能があります。
この文脈で言うなら、自分を「取るに足る人物だ」と思いたいという欲求です。
この本能があるのは、人間が他者と共に生きる社会的な動物だから、と言われています。
人類は群れを成して互いに協力し合うことで、野生に潜む幾多の危機や困難を乗り越えて、現代まで命を繋いできました。
歴史の中で、人間にとって社会からの追放は「死」を意味していたのです。
人間の本能や心理的傾向などの基本構造は、旧石器時代からほとんど変わっておらず、人は社会から追放されること(=生存確率が下がること)を、本能的に恐れるようにできているそうです。
だからこそ、他者からの評価や社会的な立場を守ることは、人間の生存戦略として非常に重要な意味を持ちます。
この本能が、人を自己肯定へと導くのです。
自分にとって理解できないものを「間違っている」と言いたくなること
自分が部下よりも優れていると思うこと
そういったことも、人間である以上、それほどおかしい現象ではないのです。
(それっぽいことを言ってしまいましたが、いずれも「諸説あり」です🙇)
人に可能性を感じることが「興味」
あなた自身もその周りにいる人々も、自分を「取るに足る人物だ」と思いたい本能を持った人間です。
自分が言いたいことばかりを話す友人
まるで意見を聞いてくれない上司
こちらが話している間、見向きもしない人
そんな方に対して、ほんのりと寂しさや虚しさを感じたことはありませんか。
人は自分に興味を持ってもらうことで、安心感や喜びを覚える生き物です。
そして「与える人が、与えられる」とも言います。
まずは身近な家族や友人、チームメンバーの可能性を知り、
「この人はこれまでどんな経験をして、どんな世界(自分にとっての未知)を見ているんだろう」と考えてみるところから始めてみるのはどうでしょうか。
どれだけ親しい人でも、その人の思考や価値観の基礎を形作る経験の全貌は知らないはずです。
例えば日常会話の中で、
「好き」や「嫌い」などの独自の意見を聞いたり、
「〜を買った」「〜に行った」などの何かの意思決定を伴う話を聞いたりしたときは、その方のビューや深い価値観を知るチャンスです。
「わかる。自分も〜」
「そうなんだ。私は最近〜」
なんて言って、自分の想像の範囲で理解したつもりになって、うっかり自分の話に繋げてしまっていませんか?
「なぜ?」と、その背景や心が動いたポイント、思考の過程を聞いてみてください。その人だからこそ見えている「何か」を教えてもらえるはずです。
その答えを聞いて、自分が面白いと思うかどうかは関係ありません。
自分の「知」の限界を本当に自覚できているのなら、目の前の相手がどんな人であっても自分にない「可能性」を感じられ、その方の話に多少なりとも価値を感じられるようになっているはずです。
その状態こそが「興味を持つ」ということだと思っています。
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