コミュニケーションのない家庭
まあまあの私大出身で、忙しくて、イライラしていて、無口で、怒りはげんこつで表現して、言うことは正しくて、勉強しないでいるなんて信じられなくて、背が高くて、母を下に見ていて、長男で家長の父と、
気位が高くて、見目麗しくなくて、一流高校入試の失敗以降勉強はしなくなったとかで、普通の私大出身で、いいとこの出自が自慢で、キレどころが分かりづらくて、空気を読まなくて、自分ルールを押し付けてきて、ヒステリックで、察しが悪くて行き届かない母と、
詮索好きで幼児を容赦なく打ち、文句ばかり言い、嫁をいびる祖父母とで、暮らす家で育ちました。
家は台所が別でお風呂が一緒のゆるい二世帯住宅でした。
子供は私の下に妹が一人います。
父はお酒が好きで毎晩お酒を飲みましたが、医者から飲酒を止められていた時期がありました。
私が、4~5歳の頃だったと思います。
朝食が置かれた食卓に大きな梅酒の瓶が置いてあります。蓋の赤い透明の瓶です。母の手作りの梅酒が、大きな瓶の口までなみなみと入っています。
私は父が食卓に着く前に、母がその瓶を台所へ片付けるように祈るような気持ちで身を固くしていました。
父がお酒を飲めないのに、食卓に大きな梅酒の瓶があってはいけないと考えたからです。
食事をする部屋は和室で、両親の寝室も兼ねていました。足を折りたためる、ちゃぶ台を大きく四角くしたような食卓を使っていました。
さっきまで布団を敷いて寝ていた部屋に、食卓を置いて朝食をとるわけですから、大きな梅酒の瓶は母がわざわざ台所から運んできたことになります。
瓶にはぶら下げて持てるように赤い取っ手が付いていましたが、大人でも片手では持てないように思えました。
私は瓶は何かの都合で一時的に食卓に置いてあるが、朝食が始まる前にはきっと母が台所へ持って行く、持って行きますように、そう強く希望していました。しかし、それがかなえられないことはもう分かっていました。
父が身支度を済ませ、和室に戻ってきました。
出勤前の父母と食卓と朝食に、瓶はあまりに唐突で不釣り合いで異質でした。
父はイライラした様子で梅酒の瓶と母を交互に見比べ、それを何度か繰り返した後、とうとう自分で台所へ持って行きました。
片手で乱暴に持ち上げて、そのあと台所から瓶が台にやはり乱暴に置かれた音が聞こえました。
「あら、持ってきたのよ。」
「なにが。」
これがその時の両親の会話です。
幼い私には恐怖の内訳は分かりませんでしたが今なら分かります。
私は父が機嫌を損ねることと、母がその原因になることが怖かったのです。
母が、父が腹を立てているのに気づかないこと、父が母に説明しないことが怖かったのです。
しかしそれらを指摘するのは、それら以上に怖かったのでした。