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背骨にしまって

太宰治という人を、初めて読んだ。
人生37年目にして初めて。この歳になってやっと初めて思ったのだ。やっと私も太宰治を読めるかもしれない、と。

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紺色の制服が、熱も意欲も失った少年少女にただ覆い被さっている。水分を失った硬質な国語教師の声が床に落ちていく。乾燥した肌に刻み込まれたほうれい線すら規律正しく、短く切りそろえられた髪の毛は戯れることすら知らないようだ。微細な狂いも許されぬ唇の縁取りと、その中に均一に塗られた紅。その紅のみが彼女を女たらしめるものであるはずなのに、香りも温度も抜け落ちたそれはただの絵の具のようだった。

「太宰治ねぇ」
その人は黒板消しを行き来させながら呟いた。
「嫌いなのよ、この男」
私は思わず彼女の後頭部を見やった。
私の視線などお構いなしに、よいしょ、と背伸びをして上の方を消している。
周りをうかがい見ると皆下を俯いて、というか、ぐったりと精気を失ったように固まっていて、ただ時が流れ去ることだけを願っているようだった。誰一人として教師の独り言など気にしていない。
私はひっそりと次の言葉を待った。

「何回も自殺して。しかも毎回女と一緒にね。それで女の方だけ死んじゃって自分は生き残ったりするんだから。結局最後死んだ時も、不倫相手と心中だったしね」

授業終了のチャイムが冷え切った教室に滑り込んで来た。黒板はまっさらになっていた。

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見慣れた標識には『太宰ミュージアム』の文字。
しかし私はいつもその下をただ通り過ぎた。その矢印が指す方へ向かおうと思ったことは一度もない。
彼が生まれた青森に私も生まれただけで、そこになんの感情も湧かなかったのは、小さく柔い15の胸に、女教師の嫌悪が深く食い込んだからだろうか。そんな男が書くものなど読んで何になると思ったのかもしれない。
私はその時まだ15だったのだし、まだ何も解っていなかった。
この20年余りで、私は自分の中から迸る欲望や、滲み出る弱さや、醜い独りよがりなどに気づき、一度は否定したりしたが、しかし最後は認めざるを得なかった。私という人間は、15の私が思っていたほどまともでも正しくもなかった。そしてその事実は、理性という仮面で覆えば覆うほど、その下でぐつぐつと煮えたぎり、太宰治という人が驚くほど近くに感じられるようになってきたのである。

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『きりぎりす』

1940年に発表された太宰治の短編小説である。
ページを開くとまず、「お別れ致します」と唐突に始まる。妻から夫へ、離別宣言の手紙である。
高学歴、高収入の好条件の見合いを断り女が嫁いだのは、無名で貧乏な絵描きだった。彼の描いた一枚の画を目にして震え、この画は私でなければわからないのだと、結婚を決意した。
金のない暮らしは楽しかった。夫は展覧会にも大家の名前にも無関心で、勝手な画ばかり描いている。一生貧乏で皆から嘲笑われ、それでも平気で頭を下げず、そんな美しい人がひとりくらいはこの世にいる筈だ、それが彼なのだと思っていた。
しかし夫は、名誉も地位も金も傲慢さもはしたなさも手に入れてしまう。ラジオから流れてくる不潔に濁った声を聴いたその夜、一人で寝た妻は、縁の下、ちょうど背骨の真下あたりで鳴くこおろぎの声を聴く。なんだか背骨の中で小さいきりぎりすが鳴いているような気がした。この小さい、幽かな声を一生忘れずに背骨にしまって生きて行く、と妻が決意したところで、この手紙は終わる。


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夫の姿に、太宰治が透けて見えた。
売れない画家が名声を手にしていく様に、文学賞に落選していた太宰治が光に照らされていく様が重なった。
あの国語教師が忌み嫌った男が出来上がる過程のようなそれを読み進めていく。

しかしやがて、この夫と太宰の決定的な違いが浮き彫りになっていく。
太宰はすべて解っていたのだ、と私は思う。それは、女の眼球を通して自分の姿を冷静に眺めているかのような文章に表れていた。
無知な無邪気さでもって美しかった夫と違い、太宰治はこの世の仕組みや人間の愚かさ賢さ、本当の美しさを解っていた。この作品を読み終える頃には、太宰治は妻の姿のほうに透けて見えるようになってきていて、夫は遥か遠くラジオの中へ閉じ込められていた。
濁った雑音を締め出した世界で、背骨の真下の幽かな声だけが響く。それは、この世の本質を懸命に問う声なのかも知れない。
それをしっかりと背骨にしまう姿には、やはり太宰治の、真正面を向き座る視線が見えるのだった。

本質を解っているひとが、欲望や弱さが煮えたぎるのを飼いならせずに、さらにはそれらに呑み込まれていく様は、なんとも人間らしく、それこそが太宰治という人なのだと思った。

もう15の頃のように青く澄んでいない、熱で濁るような、残酷に冷え固まるような経験を経て人間らしくなった私に、太宰治はなんと真摯に寄り添ってくれるのだろう、と本を閉じてただ思った。









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