見出し画像

データサイエンスは現代の神学だ

 カントは形而上学を認識不可として、人間は知覚できる事物のみ知り得るとした。知覚できる物質を追求することこそ自然科学であり、20世紀になると原子物理学が登場し、唯物論が台頭した。

 19世紀末の物理学最大の論客であった原子論者ボルツマンは統計物理学をつくり、ミクロとマクロの橋を架けた。シュレディンガーのように生命現象を統計物理学から説明する者もあらわれた。

 自然科学はいまや原子論と原子の振る舞いを説明する統計物理学の産物だ。原子と統計ですべて説明できる、とする。精神と物質の関係の説明を要求され、中には「自由意志はない」と結論づける者もいる。21世紀初頭、人工知能の第三次ブームは終わるところを見せないのは実用化のレベルにおいて我々の心までも原子論や統計物理学の対象となったということだ(実際、コンピューターを動かす半導体の物理は原子論を基礎とする量子力学と統計物理学によって説明される)。

 しかしこうした唯物論の考え方が統計物理学によって支えられている以上大きな問題がある。それは見えている部分はマジョリティの振る舞いだからである。物理学で「法則」というとき、その法則に則らない存在も当然あるが、統計的な処理によってそれが見えない。このような処理によって成立している自然科学を信仰しすぎると社会を形成するイデオロギーに偏りをもたらすだろう。そう思う。大量のプロット点に対して相関係数が大きくなるような一本の近似線を引くことは、その線に乗らなかった点をただちに異端とする。

 宗教に力があった時代、我々の安寧は神や仏が保証した。信仰あつくして祈りをささげることが大切であった。しかしすべてが神に帰属するように権威が集中すると様子が変わって、西洋では神を学問の対象として扱うまでとなり社会思想に多大なる影響を及ぼした。神学の宗教的論理の過剰な構築は厳しい階級社会と迫害を横行させた。

 現在の合理化あるいは効率化の動きは自然科学的論理の過剰な構築であると思う。これは秩序立った(とされる)動きをとることが難しい社会的弱者に追い打ちをかける行為であり、しかも、より効率化が進むといまは支障がない人をも今後外に追いやられることになる。発達障害やADHDなどが問題になったのも、このような社会の動きが原因の一つだと思う。一昔前なら「ドジ」と笑われていただけが今では病気持ちである。まさに異端扱いしている。

 私たちはこのような社会の違和感に気がついている。自然科学の論理で社会が厳しくなっている。秩序立てれば秩序立てるほど、無秩序は多くなる。無秩序になるまいとストレスを抱え続けている。だから自然科学的論理を獲得したくて「言語化力」「思考力」「論理的に話す方法」などのくだらない本を買う。「正論」とか「論破」とかくだらないことにあやかる。人はどれだけ頑張っても論理的にはなれないし、なる必要もないのに。

 近年データサイエンスの教育が増えている。高校生が受験する共通テストに「情報」の科目が加えられたほどだ。データサイエンスは測定した結果にあらゆる考証を行うための統計的アプローチで、この学問が発展すれば自然科学的論理で私たちは余計な束縛を受けて、社会はより一層の厳しさを求めるかもしれない。自然科学的論理の過剰な構築についていけない人たちで溢れてやがて牙を剥くのである。

※この記事は神学を否定する意図はありません。神学が発展した中世ヨーロッパで異端扱いを及ぼしたその構造自体が現代にもデータサイエンスという形で通ずるのではないかと思っただけです。
なお、歴史認識が浅いと感じられましたら忌憚なき意見をよろしくお願いします。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?