合掌キャラの兆し
合掌というのは、てのひらを合わせることであるが、あらゆる宗教の祈りにおいて合掌は大切である。手を組むにしても、手を合わせるにしても、てのひらは合わさってこそ形になるのである。
ちなみに右手というのは左脳(男性的)とつながっていて、左手というのは右脳(女性的)とつながっているという学説があり、僕もそれを信じているところがある。つまり、右脳=直感的な思考と、左脳=論理的な思考とを合わせ、男性的や女性的な構造も超えて、ただ祈るということができる、正しい祈りのかたちであるなあとつくづく感じている。
「もう何を言ってるのかわからない」という方には、また今度会ったときにでも話しましょう(笑)感覚的な話なのである。
ありがたいことに、最近ときどき「手ェ合わしとこ!」と冗談混じりで合掌してもらえる機会が出てきた。偶像崇拝をオススメすることはないが、僕に会うときに合掌することを思い出すというのは悪いことではない気がする。
そういえば、祈るときの話を書いたことがある。
そして手を合わせて祈るとき、どんな気持ちだろうかとそのとき考えた。
・助けてほしい、こまった(嘆願)
・申しわけない(謝罪)
・ありがとうございました(感謝)
・幸せでありますように(祈り)
僕の顔を見て「合掌しとこ!」というとき、「嘆願」や「謝罪」をするような人はあんまり見当たらないので、どうやら「感謝」か「祈り」のどちらかであるように思う。それってなかなかいいことじゃないかと思うのである。
なぜかって、感謝や祈りはあればあるほど「いいことがその人に生まれる」ことにつながると信じているからだ。それはなぜか。
「脳みそというのは検索エンジンみたいなもの」という言葉を聞いたり、また自分でも言うことあるという人もいるだろう。
脳みそというのは不思議な性質があり、自分の目の前で起こったことについて「ありがたいな」という気持ちを持ってみると、それが望ましいことであっても、望ましいことでなくても、それが自分にとってありがたいことである理由「なぜ?」を探し出してくる。
また同様に、ある時に「幸せでいてね」とふとなにかに対して祈るとき、必ず脳みそはその対象「だれ?」を探し出す検索エンジンとなり、その誰かのことを思い浮かべて幸せを祈ることになる。
そのふと思い立った気持ちがあるかないかによって、必ずその人を思って行動する機会が増えることにつながり、またいつかその相手にとって幸せであることを行おうとする。そのことは無駄になることはなく、自分が誰か大切な人のために何かをできることはとても幸せなことである。
ありがたい解釈を考えて、目の前のものごとにある気づきを得る機会にすると、人を責めることもなく、環境に嘆くこともなく、その事象にある学びを素直に受け取ることが出来るから成長もするし、人に当たることもなく争いが生まれることもないので、無駄な諍いが生まれず、穏やかな日々が続く。
祈るべき対象を心に描き、その人に対して祈ることが出来ることで、自分にとって大切な人がいまどんな気持ちだろうと思いを馳せ、いつかその人のためにできることを考えておこうと思って今日を過ごし、その人が嬉しくなるためのアイディアも生まれ、小さなチャンスも生まれ、それを為せた自分を誇りに思えることはあっても、恐らく嫌いになることはない。
神社やお寺というのは、手を合わせる機会を自然とつくっているという意味で「そこにあるだけですでに価値がある」と思う。
それがほんと冗談交じりでも構いやしないのである。自分という存在そのものが生きていることが、人が手を合わせる機会をつくることになったという事実がすべてなのである。
僕はその存在そのもので神社か寺に相当するような存在になったというのだから、それはもう素晴らしいことであると思わざるを得ないのである。
お地蔵さんというのは、地蔵菩薩さんのことである。まだまだお地蔵さんがこの世界で一日に合掌されている総量に比べれば微々たるものであることは明白だけれど、人を安楽させる千里の道もただ一歩からなのである。
いたる=合掌キャラ、という兆しがわずかながらも生まれてきたということは我が人生のミラクルそのものである。お祈りブログやっててよかったな。
合掌。
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