hūṃ(うん)で締める
最近そんなに読めてないけど、割と本は好きなほうである。
さて人生で読んだ本の中で最も
「こんな薄いのにめっちゃ難しい」
と思った本がある。コレだ。
この中の「吽字義」という章があるのだが、めちゃくちゃ難しい。
そして宇宙が好きな人は読んだ方がいいと僕は思っている。
平安時代にこんなこと思ってた人いたのかよ!!!って思うはず。
めっちゃシンプルにまとめてくださっているブログを見つけた。
吽は、阿・訶・汗・麼の四つが一体となった字であるとして、一つ一つの意味を空海は詳しく説明する。
字義によれば、阿はすべての真理をさす。訶は仏の全ての教えをさし、汗というあらゆる修行を経ることにより、麼という結果を生み出すことができる。
言い換えれば、訶・汗・麼のプロセスを辿ることで、阿に行き着くことができる。そうした有様を吽という一文字で示せてしまったという。この作業によって、空海はあらゆる仏教宗派の修行と悟りを一つにまとめてしまった。
ブログを書いている方の解説はめちゃんこ分かりやすいのだが、それでも、まあほとんどの人はピンとこないのではないかと思う。
それはそうと、最近のマイ仏教熱が高まっててタイヘン。
なんにも悪いことはないと思うし、出家はたぶんせず、在家で仏教に関わる役割を果たしていこうと思っている。
ただ仕事をしていても、趣味に関わっていても、遊んでいても、物事がそうある理由というのを考えていくことや、そうあるならこれからどうなるかということを考えていくにつけて、「もう仏教やな」と思うことが頻発する。
ただタイヘンなのは、突き詰めていけばいくほど、普通の感覚から遠く離れていくのだろうという冷静な感覚。
ある意味で没頭をしていないのだから、こうして客観的な距離を図ろうとするのだろうし、わかりやすく伝える力を持ち続けるためにも、そうしたバランスを保ち続けないと、いくらでも狂人として距離を置かれかねないから、いまこの状態であることに不満はなく、楽しく確かめ続けている日々だ。
世の中における理解を得る、というのは直観したものを言語化する作業である、とつくづく思う。
その言語化を疎かにすると、理解されない、となるわけだが、理解を求めるならば相手の理解する言語や現象に合わせなければ伝わることはない。
それが本当のことをすべて表しているわけではないが、本質的で大切なことを、表現を具体的にして分かりやすくすることは、ときに違った理解度の人にとって誤解を生むことすらあるのだなとも思う。
仏陀が対機説法をする中でときおり矛盾したように感じることを言うことがあったり、インドの聖者であるラマナマハリシもまた、同じような矛盾に聞こえる言葉で表現をしたが、これはもう理解する相手に合わせたものを実現しようとするなら致し方のないことだなと思う。
本当のことはきっと対話の中で生まれ、そこで生まれた感覚的な納得にこそ救いがあるように思う。
だって、空海パイセンがたしかに言い表したことは、「吽」の字ひとつで、世界の理をあらわせているけれど、そのことはすごいことだとしても、それだけで救われる人はそういない。また違った言葉や行動をとるのだと思う。
今日はすこしいろいろと説明を省き気味の表現で書いてみた。
ちなみに写真の字は梵字の「ウン(hūṃ)」を書いたもの。
究極に簡単な念仏は「ウン(hūṃ)」だと信じている。
そのうちこれを札にして一遍パイセンのように配っていこうかと。
吽。
急に読者の方からサポートもらえてマジで感動しました。競馬で買った時とか、人にやさしくしたいときやされたいとき、自暴自棄な時とか、ときどきサポートください。古民家の企画費用にするか、ぼくがノートで応援する人に支援するようにします。