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アルナーチャラでたしかめる

今日は朝から聖地ティルヴァンナマライの聖なる山に登ってきた。

聖山アルナーチャラに登る行程を組んでもらっていたのだが、聖地とかなんかおもろい、いきます、という返事をしただけで何の準備も予備知識も、なんだったら山に登ることすら忘れてしまって、情報を得ようとしなかった。


ただ直前にアルナーチャラ山ってのはこういうところなんだと聞いた。


インドには、次のような言い伝えがある。"By seeing Chidambaram, by being born in Tiruvarur, by dying in Kasi, or by merely thinking of Arunachala, one will surely attain Liberation."訳 「チダムバラムを見ることにより、ティルヴァルールに生まれることにより、カーシー(ヴァラナシ)で死ぬことにより、あるいは、ただアルナーチャラを想うことにより、人は必ず解脱を達成するだろう。」


ま、まじか。


ただアルナーチャラを想うことにより、人は必ず解脱を達成するだろう


おおおおお、思うだけで解脱を達成するだと!?

「あらゆる人が南無阿弥陀仏を10回唱えるだけで極楽浄土で仏になる」という請願を立てた法蔵菩薩のそれにも迫る、むしろそれを超えるような力があるやないか!


こ、これは、とんでもない山にきてしまった。
これはもう感受性を限度を超えてオープンして登らせて頂かねばなるまい。


朝の7時から準備して、水をたっぷり3リットル用意した。
景俊さんは2リットル用意して、合計5リットルも飲まないかもしれないが備えあれば憂いなし、ってことでいいじゃないか。リュックに詰めた。



インドきて数日して、レッドバナナってなんだろうと調べて、この赤いのが他のに比べるとめっちゃ高価で、しかしその高価に見合うだけの強力な滋養効果があることを知ってから、もうほんと毎日くらい食べている。


今日も見つけた。インド経のレッドバナナ宗派の敬虔な信者である僕は見過ごせるはずもなく、本日もきっちり一本15ルピーを支払ってから頂く。


おっしゃー、今日もやるでー!
そんな気分になるからとても不思議(笑)



レッドバナナからの力を得て、目指すはあの山の頂上です。
この写真ではイマイチ伝わらんかもしれませんが、たーかーいー(怖)


「すーごい岩山なんすよ。ほんと、僕も何回も登ってるんですけどね。いや、それでも体の小さい外国人の女性とかもね、なんか登るんですからね。ほんと不思議な山ですよ。」


景俊さんがそう言うので、なんやかんや、いけちゃうんだろうなと思って、まあ気楽にゆったり登っていけばいいやと思っておいた。




登って降りて、だいたい5−6時間はかかるので、ご飯を食べておかないとキツイってことらしいのでまずは腹ごしらえということに。ちょうど山に入っていく道の入り口付近で、朝メシを出してくれそうなお店が2軒あった。

そしてどっちでもいいが、まあ入り口に近い方のお店でいいかってことで、プーリとワダとチャイを頼んで食べることにした。



ぬおー。プーリ1枚かと思ったら、一人3枚も入れてきた。本当にインドは糖質から逃げることがしづらい国だなと思う。南インドだけなのかな。

その辺にあるお店でなにかを買おうかなと思っても、砂糖、小麦、米を、パンとかナンとかドーナツとかそういうものにして、焼いたり、揚げたり、ケーキにしたり、もうそんなんばっか!!野菜ばかり食える店が希少すぎる。

決して嫌いじゃないしとても美味しいのだが、こんなんじゃお腹もぽっこりと出るに決まっている。おーそーろーしーきー国よー。


お店の中では、おじさんと若者が調理をしながらめっちゃふざけあっていて仲良しで、とくに若者のほうなんかは、なにが面白いのか一切わからないんだが、もうちょっと笑い疲れてヘトヘトになるんじゃないかというくらい、めっちゃ笑っている。なんかインドで珍しい感じの感情表現だなと感じて、ついつい写真を撮っておきたくなった。


ただお金を預かるおっさんの無愛想さは高確率。まあ日本のことを思うと、もはや「お客様は神様」という言葉の意味がよくわからない感じで消費者はすべてのカーストのトップかのように振る舞う人もいるだろうけど、そんな人はインドではやっていけないだろうなと思う。

ここは平等な感じがするし、店員がまじでこいつ気に入らないなって仮に思ったら、出て行け〜って話になってもおかしくない雰囲気が漂っているが、ただ不思議とぜんぜん悪い気はしない。



さてちょっと賑わっていた繁華街を抜けて、小さな小道を抜けていく。この先には森があって、その先にまずは瞑想するための小屋があるらしい。



10分くらいかけて森の道を抜けていく。すると山の麓にたどり着き、お猿さんが楽しそうに遊んでいる。冗談をしまくって楽しんでいるようだが、やりすぎるとボス猿っぽいのに叱られてたりする。かわいい。



小道から25分ほどかけて歩いて、小屋にたどり着いた。決してそこまで大変だったとは言わないが、まあ少し疲れたなと言えるくらいの距離だった。

ただ、ちょっと異常に暑い。汗がいきなり吹き出てきて、本当にちょっとだけ歩いただけなのに、こんなに汗出るかーっていうくらい出る。



小屋ではおばちゃんがお猿さんの写真を撮っている。
こういうものが可愛いと写真を撮るのは、インドの人でも同じである。



さてさて。いつまでも休憩しているわけにもいかないので、瞑想小屋をあとにして、僕らはこのアルナーチャラ山を登って行くことにした。

あ、ちなみにシヴァと一体になることを感じるためにか、ここは裸足で登るのだということで、裸足で登る。がんばるぞー。



登り始めてすぐ気付いたが、これさ、めっちゃ遠い。しかもビビるくらい険しいから、ずーーーーーーっと、ずーーーーーーっと岩山を手と足を使いながら登って行くのだ。まじかよ、こんな険しいとか全然想像してなかった。


ただし、驚いただけだ。なんとなく気候もいいし、楽しく登れる感じがする。行く先はわかりやすく、こうして矢印がつけてもらえていて、むかしこんな矢印をつけてなかった頃に比べると、僕らはずいぶん楽させてもらっているんだろうなあと思った。が。

誰が書いたのかな、この矢印(笑)ってなんか笑えてくる。



もうひたすら登る登る。登る以外のことはする必要がないが、あえて言うと

om nm sivaya (オン ナム シヴァヤ)

これくらいである。何回も何回も唱えながら登って行った。


ここは山自体がシヴァ神そのものだと言われているのである。僕らはシヴァの皮膚なのかなんなのかに張り付いて、えいえい、って登って行くわけで、つくづくゴツゴツした皮膚でございますな、とか、うぶ毛にあたるであろうこの植物を棘にするのはなぜなんでございましょうって、大変不敬なことを思いながら、登っていたけど、それでも確かにいままさに僕らはシヴァ神とともにあるのだろうなと思える感覚がすぐに感じられていた。

ただし、この感覚を持つか持たないかは、感受性の問題が大きいと思うし、信仰をすることに対する恐れがある人に難しそうな気もするが。とにかく、説明は難しいから、興味がある人は絶対登ってみるべきだと思う。



ふーふーと言いながら、さすがにずっと登っていると脱水してしまうといけないから休憩をこまめに挟んでいくことに。

相変わらず、景俊さんの修行僧っぽさが際立つ。ほんまこの人は、見た目もその振る舞いの優しさと、生きることに対する真剣さも含めて、すぐにでも袈裟を着てしまって、チベットあたりで坊さんがやれそうである。

休憩中のぼくらの会話を記事にしてみたので、よかったら聞いてほしい。






さてさて、登っていく。なにが厳しいって、とにかく道が険しい。それと、なんかちょっと違和感が、足の裏にきているんですけど気のせいですか?

なんかさ、ちょっと熱い。すごい熱くなってきている。地面の熱さが厳しくてアチチって、インドきてからなったことがある。カルマ解消のお寺巡りをしていた時に、こんなに熱いのかよってなったのを思い出した。


てか、おいまだ10時前でこの熱さ???
なんか、なんか、やばい気がするんだけど(怖)


そういうわけで二回目の休憩のお話はこちら。
臨場感があっていいな。こういうの残しておいて本当によかった。





さて、ここだ。もうね、一生ずっと思い出せると思う。
この平坦な、安定した、踊り場のように見える道のことを。

めっちゃ平坦なのだ。ただし、その日のコンディションは晴天で、しかも、どうやらその日はインド人もそう思うくらい「暑かった」のだと下山してからわかった。だからもう、地面がめちゃくちゃ熱くて、地獄のようなのだ。

なにが最悪っていうと、ここに見えない粒度で落ちている砂なのか石粒なのか、よくわからないやつらの存在である。チクチクチクチク刺さって痛くて次の一歩を踏み出す勇気がもがれて、足を踏み出す気持ちが出てこない。

なのに。

そこに止まることができない。なぜならそこは灼熱の大地になっていて、本気で火傷するくらい地面が熱いからだ。本当に前も地獄、止まるも地獄、戻ることもできない。最後の最後にこんな試練があるのかよ!!と思った。



こんな言い方はあれだが、生きるためには苦しまなければならないという、そんな思い込みを持っている人もいると思う。仕事っていうのは苦しいものだという気持ちを持っていて、それを乗り越えた先にしか、富も喜びもないのだというそういう考え方がある。それが思い浮かんだ。

どうしてその場でとどまって、穏やかな気持ちで瞑想をするようなことだけで満たされて生きていけないのだろう。なぜ人は何かを為さない限り、生きる価値がないと思って生きていくことになるのだろう。どうしてそれが当たり前だとして受け入れることは、基本路線で決まっちゃっているのだろう。

そして、なにかそれを越えようとするとき、この平坦な道に止まるのすらが辛いからこそ、もう前に進んでいく覚悟を決めた一歩一歩を踏み出すと、足から伝わる痛みが悲鳴をあげるほど苦しい。

世の中にあるルールやしきたり、そしてみんなで首を絞め合うようなプレイ、そういうものを逸脱した人間に対する、誹謗や中傷や嘲笑のようにだ。


どうして普通にできないのかと言われることがある。
普通になってほしい、普通じゃないから嫌だ、ということを。
それを言われると、僕はそのたびによく死にたいような気持ちになった。


普通にできる人は、普通にできることは当たり前なのだが、僕と一緒に仕事をしたりしたことがある人はよくわかっていることがある。普通は出来そうなことが、本当にできなくて、どうしても、どうしてもうまくできない。

自己嫌悪してないわけないのだが、もう本当にどうしようもないから、個性の際立つ部分で生きていくしかないことを受け入れることにした。多分それが「ないものねだりをせず、自分にあるものを受け入れる」ことになった。


今みたいに生きられるようになったことは、本当に僕は幸せだなと思うし、やっと呼吸が苦しくない状態で生きていける場所を、いま関わってもらえる人たちに「別にそのままでもええでー」という気持ちでつくってもらえた。

そうして、僕はいくらかの人たちには「そのままでええでー」と伝えられる人生を生きていくことになった。

それは僕が生きづらさに対して、自分の能力の低さや努力不足がすべてを引き起こしているからだと思い込んで、自分を高めさえすればいいんだと思って、必死になって生きてきた過程を経て、今は自分の中にある呼吸するようにできることをして生きているからであり、それがあなたの良さだよ、才能だよ、と言ってくれる人がいて、僕は生きられているからだ。その受けた喜びをただひたすら恩返しして生きていきたいと思っているからだ。


もしかしていくらかの人はそうして、安定しているように見える場所にある、とどまるも地獄だが、踏み出すといろいろと小さな攻撃に遭う、そのことが苦しすぎて、ただ絶望をして、焼けただれそうな足の痛みに耐えるだけで生きているのかもしれないのかと思うと、こんなに苦しい世界があるのだろうかと悲しい気持ちになる。それを思い当たるケースがよくある。


だけど、希望をもってそれをなんとかすることができることを伝える側に、少なくとも、いくらかの人たちに信頼をもらって、そういう仕事をする機会をもらえていると思っている。もしそうだとしたら、必ずそんな思いをしている人たちを、救えるだけ救って生きていきたいし、救えなくても、なにかその踏み出す勇気をわずかでも支えたい。そんな気持ちで生きている。


さて、さすがに、そろそろ登山に戻ろう。


息も絶え絶えというか、もう瀕死の足の裏を労いつつ、最後に立ちはだかる岩山を越えればそこがゴールである。ただ、こんな岩山なんかは、あの粒々たちの転がっている、チクチクと刺される苦しみからすれば、なんてことはないのだ。僕らはもう地獄をちゃんと乗り越えてきたのだから。




そうして、ついにアルナーチャラ山の頂きに辿り着くことになった。




到着したアルナーチャラの頂きから見える景色は、本当にあらゆる場所が見透せる気持ちになるような場所だ。とくに感じるたのは、頂きに当たる場所はとても狭く、人生の頂きに辿り着く人の割合がいかに少ないものなのか、ということを思い至るのに十分なくらい狭い。こんな狭いんだと。


アルナーチャラの頂きで得た気づきは、今の時点ではあまり整理されているとは思えない。だからここはその到着してすぐの声を、臨場感を持って届けられるものに頼ろう。このツールほんとあってよかったなー!どうぞ!




聴き返しながらブログを書いているが、終わり方が最高だった。結局は人は本当に伝えきりたいことは伝えきれないことが多いんだと思う。え、もう終わりなんやという気持ちで人生はきっと終わる。

その短い人生の中で、伝えたいものがあるなら、もう短い時間であるということをしっかりと理解して、今から始めていくのがちょうどいい。それでもなお、最後はきっと伝えきれなくなってしまうもんだろうから。



ここでもひたすら熱い。
ほんと鉄板のように熱くて熱くて仕方ない(笑)
なんというコンディションで登ったんだろう。



遠くにいる友達の幸せ、自分の生きる方向性、悩める人たちの想い、色々があるけど合掌している間には何も思っていなかった気がする。

ただ合掌したいなという気持ちで合掌できたことが無理がなくてよかった。




厳かな気持ちで終わった、アルナーチャラの登山である。



いいえ、終わりません。ぜんぜんまだ終わらない。
私たちは、より一層の熱さを蓄えた灼熱の絶壁を戻らなければならない。



この崖を。



あの地獄のような平坦な道を。
より高い温度で灼熱の大地となっている状態で戻らないといけない。




無理!


それは無理!


もうシヴァとの交信の中で得た気づきは多い。
いまからの目的は「無事に帰ること」だけだ。
こだわってられるか。帰ってやることがある。



というわけで発明したのがこれである。





これはほんま臨場感があると思うので聴きながらご覧ください。
布を敷いて足を縛り、もうほんと少しでもいいので熱を遮断して、灼熱の大地を一歩一歩進んでいった。

ここの下山はめっちゃ危ない。とにかく一歩踏み間違えたら大怪我で済めばいいし、死ぬかもなーと思えるような断崖が続いている。しかもそれら触れるものが全て灼熱の状態である。足はなんとか装備品でもってサポートし、手も熱いけど、布は岩に対して摩擦が消えてしまって滑るので、滑落したら死亡するので、手に布を巻くのはやめようという結論に至った。



そしてこの日焼けである。いや、陽射しによる火傷である。
この状態が起こる炎天下で、一度でもアスファルトを踏んだことがある人はわかると思う。あの熱さで帰りも3時間以上歩いた。




帰りの方が全然きつかった。熱いし、痛いし、乾くし、めちゃくちゃの難度。こちらの音声もなかなか臨場感があるのでぜひ聞いてほしいです。

汗が出てないんじゃなくて、汗が一瞬で乾いてたのを気づいた。いやー、普通に熱中症で死ねるレベルだったなと思う。生きててよかった。





ふー。戻ってきた。もう、いろいろと写真を撮る余裕はなかった。
とりあえず友達からおススメされてた、旨いジンジャーティーを飲んだ。


あー、生きててよかった。
やはり僕はまだ生きていたいようである。




ティルヴァンナマライの中で外せないのは、このラマナアシュラムであり、最近まで存命だったラマナマハリシさんを称えた修練場である。


ラマナマハリシさんの教えは、これから勉強するが、ざっくり言うと、

「今のことに集中する以外に必要なものはないよ」

1から10まで全部これ。複雑な問題もすべて、今の自分に集中するのみであるというシンプルな考え方。それが多くの人の心を打って、いまここに、その修練場が立派に運営されている。


なにかを決めるわけでもなく、為すわけでもなく、ただそこにあればいい、という優しさと静けさの中に、涅槃(ねはん)が生まれる雰囲気を感じた。



近くのフェアトレードショップでは、インドらしからぬシンプルなデザインの布もあって、新しいモンペをおかんに作ってもらおうかと思って(笑)、そこで布を幾つか購入した。


下山して戻ると、もうマドゥライ行きのバスの時刻が迫っていた。
ごみごみしたバスターミナルは、誰も正しい情報を持たず、適当に場所を教えてくる、インドらしさの塊のような場所だ。信用してるとバスを逃す。



誰に聞いても正しい情報が得られないが、どうやら真ん中のラインに停まるという情報が一番確からしい。そのバス会社の管理員もそこだと言ったし。


結果的には違うところに到着するっていうオチをちゃんとつけてくるから、まさにインドらしい。言うこと聞いてたら帰れんくなってしまう。


超急ぎで景俊さんとのお別れの写真を撮った。本当に一緒にいろんな場所を回れて、本当に助かったし、楽しかったし、とても幸せであった。



最後に景俊さんとの最後の収録をお届けします。


なんとか生きて帰れそうだ。


急に読者の方からサポートもらえてマジで感動しました。競馬で買った時とか、人にやさしくしたいときやされたいとき、自暴自棄な時とか、ときどきサポートください。古民家の企画費用にするか、ぼくがノートで応援する人に支援するようにします。