できることもあるし、できないこともある
今日は少しだけ寂しい気持ちと無力感を感じることがあった。
一方で明らかにこれから良いかたちでつながるご縁をつなぐことができて、とても嬉しい時間を過ごせる時間があった。
そして今日の終わりを迎えるにあたり、グループのメッセージを覗くと、たくさんの悩ましい気持ちで生きているというやりとりが綴られていて、その中で、共感や激励の言葉が交わされていて、しかもおそらくこのタイミングできっと僕は大切な言葉を届ける必要があるなと思えている。
なんというか、なんと言葉にすべき気持ちなのか。
ちょっとしたことで「あー、ほんまナニしてんのかな、意味ないのかな」と思える弱気は心の隙間に滑り込んでくる。そして、ふとそのきっかけとなる相手の心情をいろいろと深読みしようとしてしまうものだけど、それは相手の事情であって、自分のこととは究極のところは一切関係がないことなのだと考えるべき場面を、いつも突きつけられている。
きわめて、人間的な弱さである。
そんな弱気を持つことがなさそうなのに、意外とあるのだ。
なさそうに見えるのは、自分が隠しているからだ。
誰にも見せないようにしたり、なるべく思わないようにするからだ。
だからふと隙を突いて滑り込まれると、グサッと刺さりそうになる。
ただ、こうした弱気を見せることは悪いことじゃないのだということを知っているし、他人には「弱みを見せることは悪いことなんかじゃないよ!」なんて言うくせに、うまいこと隠している自分がいたりするのは、自分が一番よく知っているのである。なにを格好つけているのやら。
それでも弱気を見せたっていいと他人に言い続け、たまにこうしてポロリと数行だけこぼしてみたりするのだ。だって、たまにはそういうことがあるし、そうじゃなかったら、聖人だし、仙人だし、サウナにいってわざわざ心を整えて生きている必要などない。
ちゃんと凹むことを知っているから、サウナにいって整えているのだ。
そしていま、サウナの聖地しきじで「ととのい」を実践してから受け入れるべきだと思うのは、常に自分にはできることがあるし、どうしてもできないことがあるということだ。そしてそれは、そういうものだということだ。
自分にできることに心を集中し、一心に力を注ぐことだ。
自分にできないことを諦め、一切脱力してしまうことだ。
そして、できることを与えてくれた人たちに感謝し、その思いに真摯に答えていくことだけが自分にとって、いま行為すべきことであるということ。
無力感は、ごくわずかな小さな隙間に、うまく滑り込んで心をチクリと刺す性質がある。けれどもその痛みを感じたところで、「知ってるよ」と理解を示すだけでいい。そのとき自分に与えられた機会に一心に応えることだ。
今日もあと少し。寝るまでの間にやるべきことをやって寝よう。
毎日こうして過ごせることに感謝しかない。合掌である。