コラム:「ゲームには終わりがない」問題について
1. 前置き:ビデオゲームと映画の違い
ビデオゲームと映画。
両者はしばしば、対比して語られます。
「ビデオゲームの映像表現能力は映画に匹敵する」だとか、「残虐な映画と残虐なビデオゲームを比較すると、ビデオゲームの方が自由に操作できる分悪影響が大きい」だとか、両者を比較する議論は、この20年以上絶えず行われてきました。
僕自身は、ビデオゲームと映画の間には、一つ、大きな違いがあると考えています。
それは、「映画には明確な始まり(開幕)と終わり(終幕)がある一方、ビデオゲームには始まりはあっても終わりはない(ことが多い)」ということです。
そして僕は、このことについて考えると、気味が悪いような、恐ろしいような気持ちを抱くのです。
今日は、この「ビデオゲームには終わりがない」問題を語ろうと思います。
2. 「ビデオゲームには終わりがない」とは?
ここで取り上げようとする「ビデオゲームには終わりがない」問題をご理解いただくため、具体的な例を挙げさせてください。
僕がこの問題を考えるようになったのは、「とびだせ どうぶつの森(以下、どうぶつの森)」(Nintendo 3DS, 2012年)にハマっていた時期からでした。
このゲームの冒頭で、プレイヤーの分身である主人公は、舞台となる村に引っ越してきます。そして、ひょんなことから村長の仕事を引き受けることになり、村での生活が始まります。これがこのゲームのオープニングです。
そして主人公はこのあと、永久にこの村に囚われたまま、出てゆくことはできないのです。
住人として村に住んでいる動物たちは、一定の期間が経つと「引っ越しする」と告げて、別の村へと引っ越してゆきます。
しかし、主人公は他の村へと引っ越すことはありません。
主人公の郵便ポストには時おり、故郷の母親から手紙が届きます。
しかし、主人公はもはや、永久に里帰りすることはないのです。
村の村長として、村での「平穏な暮らし」を永久に続けることだけが、主人公に許されていることです。
上で述べた通り、このゲームには主人公が村に初めて到着する場面を描くオープニングがあって、アニメ映画さながらの演出で盛り上げてくれます。
その一方で、このゲームには明確なエンディングはありません。
このことによって、豪華なお出迎えによってゲーム世界に招き入れてはくれるけれど、お見送りはなく、ひとたび中に入ってしまうと永久に出てこられない、という感覚を抱くのです。
このように考えると、なんだか「どうぶつの森」というゲームのことが、恐ろしく思えてきました。
このような「終わりがなく永久に続くゲーム世界に対する恐ろしさ」が、ここで取り上げている「ビデオゲームには終わりがない」問題です。
※2018年6月21日追記。
過去の自分のツイートを読み返していて、「ラブプラス」シリーズにも同様の構造があることに思い至りました。
3. 「終わりがない」のは一部のジャンルのゲームだけ?
前章で取り上げた「どうぶつの森」には、ゲーム全体を貫く明確なストーリーがあるわけではありません。
それでは、「終わりがない」のは、そういった、明確なストーリーを持たない一部のジャンルのゲームに限られるのでしょうか?
僕は、そうは思いません。
RPGのように、ゲーム全体を貫く明確なストーリーを持ち、オープニングと同じくらい力が入ったエンディングを持つジャンルのゲームであっても、「終わりがない」問題はしばしば当てはまると思います。
なぜなら、ほとんどのRPGには、エンディング後のお楽しみとして、ラスボス撃破後あるいは撃破直前の世界を好きなだけ探索できる要素が備わっているからです。
例えば、The Elder Scrolls V: Skyrim (PS3 / PS4 / XBOX 360 / XBOX ONE / Nintendo Switch / Windows, 2011年) **や、Fallout 4 (PS4 / XBOX ONE / Windows, 2015年)**といったオープンワールドRPGでは、メインストーリーの完了は通過点でしかなく、プレイヤーの気の済むまで、ゲームの舞台で遊ぶことができます。
ただし、当然ながら、主人公はゲームの舞台から出て行くことはできません。
特に異色で、僕にとって忘れ難かったのは、「FINAL FANTASY XV」(PS4 / XBOX ONE / Windows, 2016年)(以下、FF15)でした。
(※以下、FF15および、アドベンチャーゲーム**「シュタインズ・ゲート」(XBOX 360 ほか, 2009年) **に関するネタバレを含みます)
FF15には明確なエンディングがあります。
主人公は最後に、自らの命と引き換えに世界を救うので、エンディング後の世界の探索はありません。
また、エンディング直前の世界は闇に包まれていて崩壊寸前なので、エンディング直前の世界を舞台にした探索もありません。
一方で、本作には「過去に戻る」という機能があって、「世界が平和だったあの頃」「仲間たちとバカやってたあの頃」を回想する、という体裁をとって過去の世界に戻り、好きなだけ探索することができます。
(注:過去と現在を行き来する際に、レベルや装備品などが引き継がれることから、回想ではなく、実際にタイムトラベルしているという解釈も可能ですが、ここでは、上記の「過去を回想している」説をとります)
僕は、FF15の主人公とその仲間に結構感情移入していたので、この仕掛けには何とも言えない物哀しさを感じました。
「世界を救うためには自らを犠牲にせねばならない」という運命を知った主人公が、それを受け入れられずに、過去の楽しかった思い出に逃避している…という、哀しいバックストーリーを、思い浮かべていました。
決定的な破滅から逃れるために、タイムリープを繰り返すことによって「平和な日常」を永久に引き延ばす…って、なんかシュタインズ・ゲートのバッドエンドの一つ「鈴羽エンド」みたいだなあ、と思いました。
ここまでに述べてきたように、RPGのように明確なストーリーがあるジャンルのゲームにも「終わりがない」ということを言うことができます。
4. まとめ
ここでは、僕が考える「ビデオゲームには終わりがない」問題について、具体例をあげながら述べてきました。
ここでは「問題」という名前をつけて議論しましたが、「ゲームに終わりがないこと」を特に批判しているわけではありません。
ゲームに用意されているクリア後の追加要素は楽しいものですし、好きなゲームにはいつまでも触れていたいものです。
(どうぶつの森は500時間以上遊びましたし、FF15もトロフィーコンプリートまで遊びました。)
でも、時たま本稿で述べたようなことを考えてみると、僕は少し怖くなってきます。
過去に遊んで、いまは棚に並べられたりハードディスクに積み上がったりしているゲームたちには、ゲーム世界から出られないままでいる僕の分身たちが、閉じ込められているような気がしてくるのです。