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剣道から学んだこと

少し前に社会人になってから始めたラグビーから学んだことをnoteに書きましたけど、私の学生時代は中・高・大ずっと10年間剣道部でした。
特に高校からは「体育会剣道部」と呼ばれてましたのでドップリと毎日がその中に浸かってる状態でした。男臭い汗臭い世界で、学ラン来てキャンパスを練り歩くあまり色気のない世界を生きていた実感があります。

私は決して剣道が強いわけではありませんでしたけれど、それでも10年間もやってるとカラダに感覚として染み付いているものがありますし、竹刀を置いて数十年経った今でもそれは自分の中にあると思っています。
剣道の師範ではないので剣道を教える立場にはありませんが、今あらためて、自分が剣道から何を学び、何が普遍的に自分の中にあるのかを整理してみます。

剣道に「一挙手一投足の間合い」と言う言葉があります。
自分と相手との間にある距離のことで、そこから打ち出せば一本取れる打突有効打突と言います)を行うことができます。
…というとそれまでなのですけれど、この間合いは人によって異なっています。

身長、手の長さなどの身体的な特徴だけでなく、跳躍力などの身体能力が有効打突を得ることができる相手との距離は、自分にとっての間合いになりますが、相手には相手の間合いがあり、それがどのくらいなのかは戦いの中で測るしかありません

自分の間合いではない距離感には「遠間」と「近間」があります。
遠間であれば攻撃は届かないので、間を詰めて行かなければなりません。近間であれば十分に刀を振りかぶり振り下ろせないので、浅い攻撃にしかならないか攻撃すること自体ができないこともあります。

相手にとっての遠間や近間が自分にとって絶好の間合いになることもありますが、間合いにはある程度の範囲があるので、「お互いの間合いに入った」状態になると一触即発の緊張感が生まれます。

お互いの間合いに入ったことが分かるとピリピリする緊張感が走ります

間合いは日々のコミュケーションの中にもあります。
分かり易いものにはソーシャル・ディスタンスがありますが、相手との心理的な距離もあるでしょう。自分にとって話がし易い距離感、相手にとって話がし易い距離感はそれぞれ異なっています。

会話にも「間合い」があると私は思っています。
話すときの物理的な相手との間合いだけではなく、間に置く話題との間合いもあります。それらを測りながら話すことでコミュニケーションは円滑にしようと私たちは日々努力しているのではないでしょうか。

目には見えない、だけれども誰もが感じることができるのが「」です。
「気が向かない」とか「気に押される」とか言いますけれど、その人の中にあるエネルギーの流れのようなものが気ではないかなと私は考えています。
その流れを制御して、ここぞというところに集中させるのが「気合い」だと私は考えています。

剣道を始めた頃、道場で気合いを出す練習を何回も何回もやっていたのを覚えています。
イヤーッとかトリャーとか。それぞれが自分のオリジナルの気合いを開発してましたね。
最初の頃の私は相手を威嚇するために気合いを出すのかと思っていましたが、稽古や試合を重なる中で気づいたのは気合いは自分自身を奮い立たせるためであるということでした。
息が上がって苦しい時や、相手の強さに圧倒されて精神的にキツい時、腹の底からの気合いを出すことで自分の底力を引き出そうと、闘志を燃やそうとしているのだ、と。

気について学んだもう一つのことに「気剣体一致」があります。
これは師範が口癖のように言っていたことでもありました。自分の気と剣の動きと体の動きを一致させなければ一本になる有効打突は生まれないのです。

気と体勢と剣の動きが一つになって初めて「斬る」ことができます

この気剣体一致の感覚は、真剣を奮って竹を切ってみると分かると思います。真剣を素人が振るうことは銃刀法に触れるので薪割りでも良いかもしれません。いずれにしても、斬るために思い切り刃物を振るう必要がある状況です。
そういう状況では自分の内側のエネルギーを一点に集中させ、腰を据えて体全体を使わないと叩っ斬ることはできません。半端な切り方では表面に傷をつける程度で終わってしまうのです。

これは剣道をしたことがある人じゃないとわからないかもしれませんけれど、気剣体一致の打突ができると(ちょっとグロテスクですけれど)、
面(メン)の場合は、相手の頭蓋骨を割って額のあたりまで刀が斬り込んでる感じ
小手(コテ)の場合は、相手の手首が地面にポトリと落ちてゆく感じ
胴(ドウ)の場合は、相手の腹が掻っ捌かれて自分が血飛沫を被る感じ
という致命傷を与えた手応えが自分に伝わってくるものです。

剣道の試合を見ていて、竹刀がちゃんと当たっているのに旗が上がらないのを不思議に思う人もいるかもしれませんが、剣道やったことがある人は旗が上がらないのは打突が浅いからであり、浅くなるのは気剣体一致の打突になっていないからだと知っています。
致命傷になっていなければまだ相手は反撃してくるので、相手に勝った証である一本にならないわけです。

コミュニケーションにおいて気剣体一致を意識するのはプレゼンテーションやファシリテーションの時ですね。
話をするときにどの言葉を選ぶのか、言葉にどのように気を乗せる(声の大きさやスピードで)のか、そしてジェスチュアなどの体の動きをするのか…
真に迫る、心に訴えるにはオーセンティックな自分を表現する気剣体一致のコミュニケーションが必要ではないかなと私は思います。

自分の中にある力をフルに活用するために、心の状態が大切であることも私が剣道から学んだ大切なことだと思います。気ばかり焦っても、肩の力を入れても、うまくいかないときはうまくいきません。
変に頑張ったり背伸びをせずに自分の持っているものをそのまま出すことができれば、それで上手くいくこともありますし、それ以上やっても長続きはしないものです。
それのことを「平常心」と学びました。

平常心で力を出すために日頃から鍛錬と稽古を積み重ねます。
それは、頭で考えて体を動かすのではなく、体が動きを覚えて状況に応じて自然に動くようになるまで続けることになります。
実際、稽古の時も試合の時も、自分はこう動いた方が良いなんて考えながら体を動かしていることはほとんどありません。考えるより先に体が動いています。

ベスト・キッドという映画で、師のミヤギがなかなか技を教えずに主人公のダニエルに延々と屋敷の壁にワックスをかけるなど雑務をさせるシーンがあります。
ダニエルはそれに意味を感じず大いに腐ってもうやめようかと思った時、ミヤギがいきなり攻撃を仕掛けてきます。思わず体に染みついたワックスを塗る動作で師匠の攻撃を防ぎ、防御ちゃんとできている自分に驚くことになります。
普段の鍛錬が自分の体に染みつき、力を出そうとしなくても自然に出てくる状況というのはそんな感じです。

ベスト・キッドはリメイクされて、ウィル・スミスの息子であるジェイデン・スミスが主人公役を、師の役をジャッキー・チェンがやっており、そこでも似たようなシーンが出てきて、こちらの描写も面白いです。どちらも大好きなシーンです。


平常心と共に学んだものには、明鏡止水もありました。
心が澄んでちょっとした気の乱れや動きに対しても敏感に感じ取ることができる状況。現代で流行っている言葉で言うならば、それはマインドフルネスと言えるのかもしれません。

心頭を滅却すれば火もまた涼し」という言葉も私の師範がよく使う言葉でした。雑念を振り払い、自分に向き合う、相手に対峙するその集中力は「(くう)」の状況でもあります。
でも、達観していると言うよりは、自分の外の気の流れを感じ取ってそれに自分の体を反応させることができる心の状態のように私は捉えていました。
言い方を変えるならば、自分の中に余計な思いや考えがあると却って気の流れを感じ取ることの邪魔にしかならないと言うことでもあります。

明鏡止水の状態で気の流れに敏感になり、平常心で体が自動的に動く。
その状況になるまで練習する、稽古する。
剣道でもスキルアップでも、それが大切だと私は考えています。

静寂の中で心が澄み切ってゆくのが黙想時のマインドフルネスです

心の状態と言う意味では、私は稽古が終わった後に正座・黙想する時間もとても好きでした。
姿勢を正して呼吸を整えてゆく中で、道場にはピンと張り詰めた空気が立ち込め、その静謐で戦いのモードではない普段の自分を取り戻してゆく…そんな時間です。

今でも瞑想をするときにはその時の体感覚とイメージを思い出すようにしています。

WBCの「サムライ・ジャパン」のように、「サムライ」という言葉は、日本人の魂や気骨のように語られる言葉になってきましたね。
サムライは今でこそ英語にもなっていて万国共通で理解してもらえるようになったのではないかと思いますけれど、元々は平安時代の貴族の護衛のことを「侍」と読んでいたように、人偏に寺がついている文字でした。

それが後世になって「武士」になり、そこから武をとって「士」も使われるようになっていますけれど、私はこちらの字の方が好きです。
仕事の「仕」は、誰かに仕える(つかえる)と言う意味で使われますけれど、会社ではなく、自分の信念に仕えると言う意味でもあるのではないかと私は思っています。
そして、私はそこに美しさを感じます。

私が剣道をやることになったきっかけは、父親から勧められてでした。
どう言って勧められのかは忘れてしまいましたけれど、精神的な強さのようなものを学んで欲しいのだろうなと言うのはなんとなく感じました。

母親は姿勢が良くなるとか礼節を知るとかが剣道を学ぶと身につくものだと教えてくれました。確かにそれもあったと思います。
礼に始り礼に終わる
道場に入るときに礼をして入る。道場から出るときにも礼をして出る。
そう言う意味では道場は自分を超えたものを通じて自分と向き合う神聖な空間だったのかもしれません。

そうやって何年も道場に通ううちに、誰から教わるわけでもなく日本文化の本質のようなものが言葉ではなく体験として刷り込まれていきました。
そして私はこの「サムライ」という言葉が好きで、そこにいくつかある自分のアイデンティティの一つがあると実感しています。

ラスト・サムライという映画がありました。
そのラスト・シーンに、サムライは主君にどのように仕えるのか、士という生き方の本質が出ていると私は思います。

自分が苦しくなったとき、意志の力が試されているとき、何が正しいのかわからなくなってしまったとき、自分は士(サムライ)なんだからこうするんだ、これを選ぶんだと決めることができる…
そんな折れない精神の強さこそが、ひょっとしたら私が剣道で学んだ最大のものなのかもしれないと今は思いますし、それをありがたく思っています。

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