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「飽きる」と「冷める」について考えてみた

私は自分自身のことを飽きっぽい性格だと思っています。
一つのことをずっと続けていることの方が稀で、このnoteなどは4年以上続いているので私の中では珍しいことかもしれません。

飽きっぽいのは「コト」だけでなく、私の場合は人間関係についても言えます。
同じ人とばかりと話していると退屈さを感じ、次第に遠ざかっていって関係性が薄くなってゆくこともしばしばあります。
我ながら刹那的だなとも、後で考えてみると勿体無いなと思うこともしばしばです。

何に飽きるのか?

「飽きる」とはどう言う現象でしょうか?
辞書の上では、「同じことが何度も続いて、嫌になる」とか「嫌になって続ける気がなくなる」とか「満ち足りていてこれ以上は要らなくなる」ような意味であるとされていますね。

つまり、「継続できなくなる」現象が起きる理由として「継続する意欲が失われている」状態になってしまっているのが飽きている状態のように読めます。

この継続する意欲がなくなる「飽きる」には、二つのパターンがあるように思います。
一つは「反復に飽きる」、もう一つは「パターンに飽きる」。
前者は具体的な飽きであり、後者は抽象度が少しあがった飽きとでも言いましょうか。

反復に飽きるパターンは、全く同じ行動を繰り返さなくてはならなくなった時に発生する状況で、例えば封筒に切手を貼るような単純作業とかが考えられます。
切手貼りを子供に手伝ってもらうと考えた時に、数通やるのであれば子供も飽きは来ないかもしれませんけれど、数百やらせようしたらおそらくは数十やったところで飽きてしまって別のことを始めてしまうのではないでしょうか。

飽きないようにするためには、二つ方法がありそうです。
一つは工夫すること。繰り返し作業の中にも多少の変化を入れてみたり、同じ作業の中にある微妙な違いを見つけて楽しもうとしてみたり…
子供に切手貼りをしてもらうのであれば、宛先の違いに着目したり、綺麗に貼れたら褒めてあげるとかがあるかもしれないですね。

もう一つは思考停止です。つまり、作業時に考えるのやめてしまう、ないしは作業をしながら頭の中では別のことを考えるようにしてみたりする…
例えば、歯磨きなど習慣になってるものというのは、飽きるとかどうかの話ではなく、やるものだと割り切って考えずに続けるので、毎日やっても「飽きる」という感情が生まれる余地はなさそうです。
それと同じように、飽きそうだなと思ったら考えずに手だけ動くように持ってゆくというわけです。

一方、パターンに飽きる、というのは必ずしも単純繰り返し作業とは限りません。
述べてきた単純繰り返しを抜け出すための工夫をしたとしても結果的に似たような状況になってしまうことに気づく時に起きます。

工夫して異なる結果が出てくるうちは飽きないのですけれど、何度か続けてゆくうちに「こうすればこうなる」みたいなパターンがいくつか見えてくると「やる前から結果がわかってる」状態になります。

どうやっても同じような結果になる。毎回似たようなことをやっていて、似たような結果になってしまっているパターン…
そのパターンには、いくつかあるかもしれませんが、数個のパターンのどれかやっているのに過ぎないのが分かってくると飽きてきます。
どうせやってもこんな感じになる…みたいなつまらなさ、ですね。

そう。その結果が常に欲しいものであればそうはならない人もいるのかもしれませんけれど、私はそこにマンネリのようなものを感じてしまって嫌になってしまうのです。色々な可能性や発展性がもっとある方に魅力を感じてしまうので。
この辺りは私が「刺激」を求める多動症傾向が強いからかもしれません…

「冷める」と「飽きる」

ここまで飽きることについて考えてきて、似ている感覚に「冷める」があることに気づきます。微妙にニュアンスが違いそうですけれど、かなり似ているように思います。

「冷める」は文字通り「熱を失う」ことを意味しますよね。
つまり、最初には何かに熱が入っている状態(夢中になってる、前向きになってる)があるわけです。この辺りが単純な「飽きる」とは違いそうです。
単なる飽きるは必ずしも最初に熱が入っているとは限らないでしょうから。

ただ、飽きてくると「冷める」は確実にありそうに思います。
例えばこれは、すごく面白そうだ、奥深そうだと思って熱を持って学び始めた何かがあったとして、夢中になってあれこれ調べてみたり、ワークショップやセミナーで一通り学んだら、「あぁ、こんなものか」みたいに分かったような気分になってしまう…
つまり、パターンが見えてきた、あるいは同じことを何度も学んでいるような気分になって来た時に飽きてきて、面白そうだと思っていた熱はどこかに消えてしまう…

恋愛における「カエル化」にも冷めると飽きるの関係がありそうです。
素敵だと思った異性と親しくなってしまったら、なんだか普通の人のように思えて来てしまい、やがて魅力を感じなくなったり嫌悪感を感じる…
それでも念願叶って付き合ってるので、続けるのだけれど飽きはすぐ来てしまう。
このパターンは飽きるより先に「両思いになったことで冷める」が来てそうにも思います。熱が入ってる時は素晴らしく思えて飽きなかったものが、熱が抜けたことによって「飽きることができる」状態になってしまっている…みたいな。

こう考えてみると「飽きる」と「冷める」は、コトやヒトに関しては表裏一体のような感じになってるのではないかと思えて来ます。

「飽きないこと」って何だ?

学びでも遊びでも、そして人間関係でも「飽き」が来ないようにするにはどうしたら良いだろうか…なんて私はこの頃考えてます。
なんでもそうなのですが、3年ぐらい続けていると飽きてくるのです。

コト系では、何かに興味を持つとそれに没頭して調べたり学んだりして、深く理解したり体験をしようとします。そのための時間を惜しむことなく集中し、没頭してゆくうちに「果て」というか「底」というかのようなものが見えて来てしまいます。
世界を一通り見て来た気分になっているのだと思います。実際には知らないことやわからないこともまだまだあるはずだとは思いますが、自分が興味を持っていた範囲のところについては分かった気分になってるので、そこから先は見るもの聞くものが皆同じように見えて来ます。

ヒト系では、コミュニティに参加しているうちにそれが起きます。
大抵のコミュニティにはテーマがあるので、それに興味がある人たちが集まって来ます。最初のうちはそれを新鮮に感じているのですけれど、集まっている人が実は似たような人たちであることがわかってくるだけでなく、集まって話し合っていること、やっていることが同じようなことの繰り返しのように感じられてしまう…
私の感覚で言うならば「なんだか同窓会で昔話をしてるよう」な感覚になり、発展することのない閉じた世界の中に閉じ込められているかのように思ってしまいます。

このようなことが3年で起きてしまう私のパターンの中には「冷める」が密接に関係しているように思っています。
つまり、最初の熱が高すぎて、その熱に浮かされて短期間で深く没頭しすぎているのではないか、と。

ふと、長続きしているコトや人間関係を振り返ってみて思うのは、長続きするものほど「初期の期待」や「熱」が低く、続けてゆくうちにそれがじわじわと火がついてくるけれど燃え上がることはなく、トロトロと火がつき続けている感じ…
時々火は小さくなったり、大きくなったりはするけれど燃え尽きることはない感じ…
…があるかなぁ、と。
そう、それは炭火を焚いている感じに近いと思います。

熱を持って始めたものでも、ずっと繰り返していても好きなまま、飽きないままで続けられる事を持っている人は私の周りに結構います。
その人たちは「これだ!」という分野、例えばコーチングやセラピーの中での1ジャンルについて、ずーっと学び続け研修の講師をしたりしています。そう、それはもう20年以上も。

そう言うことができる人ってすごいなぁって心から思います。
私には、そう言うのがないように思えているので。
いや、でも、ひょっとしたら気づいていないだけかもしれません。

「ずっと繰り返してしていても飽きないほど好きなこと」
それをしているときは没頭してて、そうなってる自分に気づけていないだけかもしれない…
だとしたら、それは自分の天職なのかもしれません。

これを読んでいるあなたは、ずっと飽きないこと、ありますか?
それにかける熱ってどんな感じですか?
ひょっとして、それはあなたの天職ではないですか?

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いたる | 外資系人事の独り言
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