ロベルト・ボラーニョ「ジム」
チリ生まれの小説家で詩人のロベルト・ボラーニョの小説「ジム」を読みました。
正確には、感想を書くために幾度か読み返しながらこの感想を書いています。
何か気の利いたこと、ウマいことを言おうとして。
「ジム」は、短い小説です。3ページしかありません。
小説がとても長いこと、あるいはとても短いということは警戒するべきことだと思います。
作家が、伝えるべきことを伝えるために、読者を罠に嵌めるためにその分量でいいと納得したということだからです。
気の利いたこと1。
あらすじはこうです。
「ぼく」は、メキシコシティの路上で、友人の「ジム」を見かけます。
ジムは常々こう言っていた。
「おれは詩人で、途方もないことを探し出して、それをありふれた日常の言葉にしている」
さて、ジムは、路上で男が火吹き芸をしているのを見ていました。
他の観客が去っても、彼はじっと見つめていました。
路上には火吹き芸人とぼくとジムしかいないかのようでした。
ぼくはジムに話しかけますが、彼はうわのそらです。
芸人は炎の蛇を吐き出している。
ぼくは焼け死んでしまいたいの?とジムに冗談を言います。
ぼくはその瞬間、自分の言葉が真実であるとわかる。
ぼくは懐かしいアングラの歌の一節を思い出す。「クソッタレの呪われし者」
メキシコの呪いに捕らえられた彼は、そのとき自分の幽霊と向かい合っていたのだ。
ぼくはジムとともにその場を立ち去ろうとしますが、ジムは拒否します。
すると、頬を膨らませた火吹き芸人がこちらへ近づいてくる。
不吉を感じたぼくはジムを無理やり連れてその場を去る。……
それから、二度とジムと会うことはなかった。
そういう話です。
こうしてあらすじを書いて、書きながら、もうこの小説について気の利いたことを言う必要はない、ということに気がつきました。
この短い作品は、詩人の生き方を示していると思います。ボラーニョは、この掌編で全ての詩人はクソッタレの呪われし者であると言っています。
また、もっと多くのことが、あらすじで割愛した細部が、さらに詳細で拡がりのある暗示を構築しています。しかし、私にとっての要点は三つです。
つまり、詩人とは気の利いたウマいことを言う生き方ではない。
小説家は詩人にクソッタレの呪われし者であるという賛辞を贈る。
読者が詩人であれば、この3ページを読んできっと呪いを理解し、呪われるだろう。
だから、詩人ではなく、クソッタレにも呪われし者にもなるのが怖い私は、気の利いたウマいことを言おうとしているのです。
ですが、ボラーニョは私に少なくとも3つのウマいことを言う隙を与えてくれませんでした。
それが作家の巧みな悪意です。3ページの毒。文学の危険。
私は詩人になった気で路上の火吹き芸人を見つめるでしょう。