『ピローマン』観劇。最後に残ったのは悔しさと温かさ
最初は全く観劇の予定はなかったものの、演劇界隈の方々の口コミを見て、10/27(日)の千秋楽の日に当日券で滑り込み観劇が叶った。
劇場は、新国立劇場の小劇場。
舞台を中央に置き前後を客席で挟む形に作られており、緞帳も紗幕もない開けっ広げの空間だった。
幕がない代わりに、暗転と音響効果により場面転換や演者の出捌けを行っていたのが印象的だった。
音の種類はその都度異なったが、スペースマウンテンのような宇宙空間を演出する時に流れてくる音のように、不思議な音だった。
※以下、ネタバレを含みます
ストーリー展開と感想
キャストは以下の計7名のみ。
・カトゥリアン:成河
・ミハエル:木村了
・トゥポルスキ:斉藤直樹
・アリエル:松田慎也
・父:大滝寛
・母:那須佐代子
・女の子:石井輝
前半(1幕・2幕1場)
トゥポルスキとアリエルの刑事2名によるカトゥリアンへの取り調べから物語は始まる。途中から兄であるミハエルも出てきたが、舞台上にいる人数は常に1〜3人と非常に少人数。それにも関わらず幕間前の1幕〜2幕前半の計100分を全く長く感じないほど、目の前で起こる“出来事”に引き込まれ続けていた。
観劇前にあらすじだけは読んでいたのと、トリガーアラートが出ていたのは認識していたため、あまり得意ではない暴力的な場面がいつ来るのかと少し緊張しながら展開を見守っていた。
何故警察に連行されたのかがあまり分かっていないカトゥリアンに対し、考え方や性格の異なる2人の刑事が各々の方法で彼の罪を吐かせようとアプローチをかけていく様は、ガッツリと刑事ドラマを観ているようだった。
刑事の煽りに乗せられ、不安になったり怒ったり、刻一刻と様子や表情が変わるカトゥリアンを表現した成河はさすがとしか言いようがない。
この取り調べの中でカトゥリアンの作品がいくつも紹介され、子どもが暴力により傷を負ったり殺されたりするエピソードが続々と出てきたが、その度にカトゥリアンがこれまで見聞きし経験してきたことが作品に反映されているであろうことが分かり、不穏な空気が増していった。
その後、カトゥリアンの子ども時代に遡る。
カトゥリアン自身は裕福な両親に様々なものを買い与えられ、物書きの才能を開花させていく一方、自分の知らないところで存在すら知らない“兄(ミハエル)”が両親に虐待されている“音”だけを聞かされ続けることとなる。
これらの一連の行いは全て両親の実験であるというから、気持ちが悪くて仕方がない。
幸福と怪音の両方を両親から与えられ続けて育ったカトゥリアンは、暗くひねりのある物語を書ける作家に成長した。それにより両親のこの実験は成功したという訳だ。
そして、カトゥリアンが(たしか)14歳の時、両親が眠りについている間に秘密の部屋をこじ開け、初めて兄と対面。その存在と虐待の事実を知ることになったカトゥリアンは、両親を枕で窒息死させてしまう。そこから兄弟2人だけでの人生が始まることとなる。
ところが、虐待を受け続けてきた兄ミハエルの知能や精神の状態は正常ではない。
同時に、自身は虐待は受けていないものの、虐待の音を聞かされ続けてきたカトゥリアンも当然正常ではない部分があり、恐ろしい想像力を反映した物語を次々と生み出していった。そしてその物語を読み聞かせしてもらってきた兄のミハエルは、弟が書いた物語のうちの3つのエピソードになぞらえて、児童殺害を実行してしまったのだ。
これが、カトゥリアンが警察に連行され取り調べを受けるに至った流れであることが丁寧に描かれていて、物語が進むにつれて心がどんどん重たくなっていった。
罪のない子どもたちを殺してしまった兄ミハエルはというと、別に殺したかったわけではなく、弟の物語を実際に試してみたらどうなるか知りたかっただけだと言う。
子どもにそんなことをしたら死んでしまうことくらい普通であれば想像がつくが、ミハエル自身の過去ゆえにそれを考えられる知能を持ち合わせていないため、ミハエルの行動を責めるに責められないのがすごくもどかしかった。
取調室でのカトゥリアンとミハエル2人やり取りの中には、仲睦まじい兄弟のじゃれ合いなど、思わず笑みがこぼれる場面も。木村了(実年齢36歳)による、ピュアな芝居はミハエルそのものだった。そして取調室で「今から寝る」と言って眠りについたミハエルを、自分が全ての罪を背負う覚悟で、枕で窒息死させるカトゥリアン……。緩急の差がすごい。成河、木村了両名の芝居力に圧倒された。
後半(2幕2場・3幕)
幕間を挟んで、後半は55分間。
ここでは警察の2人も虐待関連のトラウマを抱えていることが明らかになった。前半は、話術や策士的な面が目立った斉藤直樹演じるトゥポルスキ、短期で暴力的な面が目立った松田慎也演じるアリエル両名ともに、後半ではより人間味が露になった。各々の過去、それに基づいた考えや信念のもと、自分なりの正義で警察の仕事に向き合っている様に熱く感銘を受けた。特にアリエルは、カトゥリアン、ミハエルと似たような幼少期の経験があるだけに、後半では2人の思いを受け止めれてくれている様子が、少しだけ救いとなった。
ミハエルは3人の子どもを殺したということで話が進んでいたが、物語の終盤、3人目の子どもだけ実は殺害されていなかったことが発覚する。3人目の子どもに対しては、子どもが死なない物語である『緑の豚』のお話の内容を実行していたのだ(あるところに緑色の豚がいて、他の豚と色が違うことから特別なペンキでピンク色に塗り替えられてしまう。緑の豚自身は他の豚と異なる色であることを気に入っていたため悲しく思ったが、ある時緑色の雨が降って他の豚たちが緑色に変わってしまう。でも特殊なペンキで塗られた元緑色の豚だけはピンクのまま色が変わらず、結果再び周囲とは違う色になれて満足した、というような話)。
カトゥリアンが自身の手でミハエルを殺してしまった後にこの事実が発覚。ミハエルは最後だけは、誰も傷つかない物語を再現していたのだった。この事実に、カトゥリアンも刑事も安堵することになる。
そして劇中、カトゥリアンが生み出した作品として一番多く出てくる『ピローマン』の物語。“ピローマン”呼ばれるある職業人が、親からの虐待・暴力などで凄惨な目に遭ってしまう子どもたちを、そうした目に遭う前の過去に遡って、本人への説明と意思確認をした上でその時点で殺してあげる、という内容だ。
これは、カトゥリアンが枕を使って両親を殺した経験から、枕をモチーフにしたキャラクターを生み出したのだろう。
他の物語は猟奇的な面が目立つものも多い中、ピローマンはある種救いの手を差し伸べる優しいキャラクターとして描かれている(とはいえ、その人の人生を続けるための救いではなく、憂き目に遭わないように早めに終焉。迎えさせるという廃退的な救いだが…)。
劇中のラスト、両親2人とミハエル計3人の殺害の罪で銃殺されることとなったカトゥリアンは、頭に頭巾を被らされてから撃たれるまで10秒だけもらえると刑事のトゥポルスキと約束を交わす。
その10秒の間にカトゥリアンは最後の物語を頭の中で描くが、トゥポルスキは約束を破り残り3秒くらいのところ発砲。思っていたより早いタイミングで命も思考回路も断たれることとなったカトゥリアンは、自身が思っていたのとは少し違う結末で物語の幕を閉じることになった。
それは、ピローマンが、ミハエルの虐待が始まる前日に戻ってその時点でミハエルの命を絶ってあげるという提案をするというもの。しかし、明日からどんなことが起こるのかの説明を全て受けたうえで「でも僕が虐待を受けなければ、カトゥリアンは物語を書けないってことだよね。僕、カトゥリアンが作る物語がきっと大好きになると思うから、全てこのままで大丈夫だよ。」と、ミハエルは笑顔でミハエルは答える。
そして刑事のアリエルはカトゥリアンの死後、葛藤の末、カトゥリアンの望み通りに彼の作品だけは焼却せずに50年間保管し続けると言う約束を守ってくれた。その優しさに少し救われた。
総括
虐待や暴力的なシーンに関しては、確かに事前警告が必要な度合いでの描写が複数回にわたってあったように思う。
一方で、少し笑いを誘うような台詞や台詞回しもあった。全体を通して息苦しくなるような重い題材である中でも、少しだけ空気穴があり、呼吸は保たせてもらえた、といった印象だ。
また、作品全体を通して最後に感じたのは、悔しさと温かさだった。
両親からの長年の虐待により正常な思慮分別がつかないまま育った結果、他人の子どもに手をかけ、実の弟の手により人生の幕を閉じることとなったミハエル。
ミハエルを守るために両親を殺してしまい、その罪と共に生きてきた上で、最後には愛する弟をも手にかけざるを得なったカトゥリアン。
亡くなってしまった子ども2人……。
「どうにか救いたかった」という思いががふつふつと湧き上がり、悔しさが残った。
温かさに関しては、死ぬ間際にカトゥリアンが脳内で描いた物語の中でのミハエルの言葉が大きい。生きたミハエルの言葉ではないものの、ミハエルであればきっとあのように言うであろうと思わずにはいられなかった。ミハエルの大らかさと優しさ、強さに、少しだけ救われた。
笑顔でじゃれ合うミハエルとカトゥリアンに再び会いたい。
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