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故郷から見たアジア太平洋戦争(福岡県みやま市遺族会)

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アジア太平洋戦争が私達の故郷にどのように関わり、過酷な環境をもたらしたのか、今一度思い起こし、その足跡を繋いでいくために、福岡県みやま市遺族会が16名の戦没遺族者が参加する討論会…
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記事一覧

【動画版「故郷から見たアジア太平洋戦争〜戦前編」公開!】

 第二次世界大戦が故郷とどのように関わり、過酷な環境をもたらしたか、記憶を風化させないた…

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【動画版「故郷から見たアジア太平洋戦争〜戦中編」公開!】

第二次世界大戦が故郷とどのように関わり、過酷な環境をもたらしたか、記憶を風化させないため…

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【三部作完結 動画版「故郷から見たアジア太平洋戦争〜戦後編」】

第二次世界大戦が故郷とどのように関わり、過酷な環境をもたらしたか、記憶を風化させないため…

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故郷から見たアジア太平洋戦争 #1 「戦前をめぐる語り合い」

野田コーディネーター 只今から討論会に入らせて頂きます。 故郷からの視点と一概に言いまし…

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故郷から見たアジア太平洋戦争 #2 「戦中をめぐる語り合い 前編」

加藤パネラー 昭和十六年、十二月八日に家のラジオでアジア太平洋戦争の開戦を聞きました。 …

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故郷から見たアジア太平洋戦争 #3 「戦中をめぐる語り合い 後編」

加藤パネラー 同居していたおじ(父の弟)に召集令状が来て、出征すると、当時、家には農耕の…

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故郷から見たアジア太平洋戦争 #4 「戦後をめぐる語り合い 前編」

野田コーディネーター 私の家族のケースを申し上げますと、父の戦死後も家族としては叔父(父の弟)を含めて六人の家族構成で生活しておりました。 私が小学四年生までは、叔父には「おじちゃん」と親しく呼んでいましたところ、母が叔父との結婚で「『おじちゃん』ではなくこれからは、『お父さん』と呼べ」とのことで大変悩みました。とうとう社会人になってからやっと小さい声で最小限しか呼ぶことが出来ませんでした。 しかし、自分の結婚後は、嫁と子供達は、実の父として「お父さん」「爺ちゃん」と呼

故郷から見たアジア太平洋戦争 #5 「戦後をめぐる語り合い 後編」

野田コーディネーター 伝敬寺のお寺様からのお話によりますと、終戦後まもなくして進駐軍の軍…

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故郷から見たアジア太平洋戦争 #6 「発刊に寄せて〜みやま市遺族会 会長 野田 清」

 先の大戦が終えて、早や七八年が過ぎようとしていますが、アジア太平洋戦争が私達の故郷にど…

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故郷から見たアジア太平洋戦争 #7 「はしがき・あとがき〜編集委員会 委員長 野田 力…

編集委員会委員長 野田 カ (みやま市遺族会瀬高支部長) はしがき  この度、みやま市遺族…

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故郷から見たアジア太平洋戦争 #8 「編集委員会構成メンバーからの一言」

 〇 菊次 加代子(みやま市遺族会瀬高支部役員) 今回の討論会を機に、戦争は絶対にしては…

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故郷から見たアジア太平洋戦争〜登場者紹介

 戦争が私達の故郷にどのように関わり、過酷な環境をもたらしたのか、今一度思い起こし、その…

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PDFファイル版ダウンロードページ

noteでは討論部分だけを公開していますが、「故郷から見たアジア太平洋戦争」冊子版をPDFファ…

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