故郷から見たアジア太平洋戦争 #3 「戦中をめぐる語り合い 後編」
加藤パネラー
同居していたおじ(父の弟)に召集令状が来て、出征すると、当時、家には農耕の為、牛がいたが、牛の世話をする者が居なくなったため、途端に、農業が出来なくなりました。
しかし、私の父は、当時勤めていたので、生活で食べていく事には事欠かなかったようです。
私の小学生時代(戦時中)は、はきものもあまりなく、はだしで学校に皆行っており、わらぞうりを履いている人もいました。勤労奉仕にも行っていました。男の人が出征して、手のない農家へ稲刈りとか田植えなどの手伝いに行くのです。でも当時は、皆がそうだったし、それが普通だったので今思えば、その時大変という感はありませんでした。
戦時中は、仏壇の仏具も兵器を作る為全部供出させられました。学生服の金属ボタンも全て、取られました。その代わり、木のボタンが配られました。
松の木からは、飛行機の燃料を作る為、樹液を取りました。終戦後お宮の松の木は殆どが枯れてしまいました。
食糧難である為、米、さつまいもなど、田畑で作るものは、供出しないといけない、農家でありながらも、作った米さえも充分に食べられなかった。学校の運動場も耕して、さつまいもを作りました。とにかく作れ、作れの時代でした。
しかし親戚の家の防空壕に焼夷弾が落ちて、父親と長男を除く一家全員が亡くなりました。大牟田が空襲にあった時は、町が燃えとてもきれいだった。子供ながらに眺めていた記憾があります。
私がお兄ちゃんと呼んでいた、父の一番下の弟は、久留米四八連隊に入隊しました。私は祖母と面会に行った時、お弁当を持っていきました。軍隊は厳しかった模様で、上官に見つからないよう、隠れて食べました。
昭和十七年に外地へ行ったが、その前面会に行った時、私は、おじの鉄砲を触らせてもらいました。それと、軍隊のベルトを形見に貰いました。
祖母の話ですが、ある日、祖母の鏡がパチッと音を立てて割れたそうで、その時祖母は不思議に思ったそうですが、すぐそのあとにおじの戦死の公報が来ました。ビルマ、インパール作戦での戦死でした。帰ってきた遺骨といっても木の箱に石が入っているだけでした。
龍パネラー
家にある金物は全部没収されました。毎日毎日出さないといけない。家の窓の金枠までも出しました。「昨日も出したのに今日も」という思いでした。
着物だけは残っていたので、母は食べるため、着物を一枚ずつ売り、金に換えて、生活費を作りました。
私は当時大牟田に住んでいました。昭和二十年七月二十七日大牟田空襲があった時、町が、家が真っ赤に燃え上がるなか、母と二人「もう、駄目だ!」と思いながら逃げました。裸足だったから地面が熱かったし、どうしようもなかった。
地面には死体が転がり、手足がちぎれている人、バラバラに転がっていて、とても怖かったし、恐ろしかったが、なぜか涙が出ませんでした。
母は「見たらだめ!」と私の顔を手で塞いで、引かれながら逃げました。足がひっかかり、倒れそうになりましたが、石と思ったら、人間の死体でした。
とにかく、一刻も早く疎開地へ逃げるため、急ぎました。
牟田ロパネラー
父が出征した時の事は、私は小さかったため、ほとんど覚えていませんが、山川から瀬高駅まで、家族でリヤカーで送っていったのは覚えております。
鼻が出てもチリ紙とかはないから、袖でふいていました。みんな服や着物の袖は、鼻をふくため、カバカパしていました。弁当は貧しい人は持ってきていませんでした。
小宮パネラー
父はシナ事変が終わり、家に帰って来ていたのですが、大戦が始まり、また父に召集令状が来ました。私は小学生の時、馬を引いて仕事をしていました。車力(タイヤが鉄輪になっている)を引いてました。
そこへ母が自転車で、甲高い声で「おとっつあん、召集令状が来た!」と叫んで来ました。その時父は「行きたくないなぁー」と言ったのを私はよく覚えています。
父が戦争に行った後、母と姉妹四人の女性だけの家庭となり、私達も、小学生の時から、水車(注3)を踏んだり、寝なしに働き、本当に苦労しました。
昭和十七年に父は硫黄島に行く事になりましたが、行く前に家へ、米、じゃがいも、玉ネギ、鶏をつぶしたのを取りに来ました。「若い隊員にいっぱい食べさせてから連れて行く」と言っていました。高田町の開駅で見送りに行って別れましたが、母は「もう会われんかもしれんのう」と言いました。父は私達に対して「学校では、しっかり勉強しなさい!」と言い残して再出征しました。
〈注3:水車は川、クリークの水を水田に入れるための足踏みをする木製の工作物〉
菅原パネラー
主人の父(義父)は、入隊し、戦地へ出征して、昭和二十年三月に戦死しました。
実は、この時同じ部隊の別の人が行くはずだったそうですが、お腹を壊し、義父がその時「僕が行きます」と言って出征していったそうです。
終戦を迎え、当時お腹を壊し、戦地に行かなかった方は、無事復員して帰ってこられたそうです。そして「私の身代わりになってもらい、本当にすみませんでした」と義父の遺族に言われたとの事です。義父は出征する時
「子供をお願いします」と近所の方達にお願いして出征していった、と後に義母から聞きました。
戦争とはこんなもので本当に悲しいことです。
戦死と言っても、敵の鉄砲の玉で死ぬのではなく、食べ物がなく、飢えで亡くなった人も相当いたと聞きました。
戦地から兵隊さんが家族へ手紙を書いて送る場合は必ずチェックがあり、もしも内容に日本に不利の状態が書かれいたりしていると、出せなかったそうです。
樺島パネラー
男性は出征することになるので、家にいる時は、日頃、戦う訓練があっていました。竹槍で相手をやっつける練習をしたり、バケツに水を入れ消火の訓練をしたり、今思うと、なんであんな事をしていたのか…と思います。
今のみやま市にも空襲を受けました。
グラマン機が飛んできたりすると、どこも防空壕がありそこへ逃げて避難しましたが、今思っても貧弱で下は水が溜まっていました。
昼はB29が連隊を組んで頭の上を飛んでいきます。大牟田が空襲を受け、真っ赤に燃えるのを瀬高から眺めていました。
父は昭和二十年三月に硫黄島で玉砕で戦死しました。
母は私が聞いても父の事は殆ど話したがりませんでした。
野田コーディネーター
戦中においては、極限たる苛酷な生活や戦地の窮状等で、もう二度と戦争を体験したくない、させてはならない事柄を強烈に思い出しお話しして頂きました。
戦争が起きると、あってはならない深刻な領域までにも突入されてしまうことをまざまざと知り得ることができたようであります。
まだ尽きない戦中の体験談があろうかと存じますが、戦後の区域に入らせていただきたいと思います。
〜続く〜
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