「チーム」と、厄介で不採算なものについて
公立学校の学校事務職員はその名の通り、「〇〇学校」という部署に所属する職員だ。
小中学校はたいてい、「課」相当の部署…という認識。少なくとも川崎市はそう。
で、特定の部署に属する職員である以上、新人職員の指導・育成・サポートは任命権者や服務監督権者とともに、当該部署も一定の責任をもって担うのが通常だ。
これを他の部署の職員に丸投げし、あまつさえ部署内では指導・育成はおろかサポート(新人相応の業務軽減)さえしない、というのは本来あり得ない。
学校においても新人教員への扱いを想起すれば、おわかりいただけると思う。
学校事務職員について、少数職種であり部署内に同職種が少ない/いない以上、他部署の同職種に一定頼らざるを得ないのは仕方ない。
しかし、他部署に面倒見させておいて、部署内ではサポートもせずする気もなく経験者と同じ仕事をさせる。
それは無責任の極みであって、繰り返すがあり得ない。
そのあり得ないことを許してしまうのが、装置として他部署の職員に面倒を見させる仕組み、共同実施・共同学校事務室だ。
もともとあった、善意と自発性に基づく同職種間の助け合い支え合いとしての面倒見とは違う、仕組みとしての面倒見。
その仕組みが、部署の長=校長の無責任を生み出す。
チーム学校の具体化の中で、共同学校事務室は生まれた。
共同学校事務室は学校にとって、学校事務職員の育成・サポートの外部化だ。
学校事務職員の育成・サポートという、厄介で不採算なタスクを外部委託することにより、「チーム学校」は進むという。
「チーム」とは、厄介で不採算なものを切り捨てることなのか。