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やめたいこと
あの頃ってやりたいことがたくさんあった気がする、それは大なり小なりさまざまに。
あの頃は綺麗に書けたと思っていたきったなーい字で書いた「小さな夢リスト」を整理中に押入れで見つけた。
大雨の日に傘を持たずに外を歩きたいだとか、体育館の真ん中で寝転んでみたいだとか、放送室占拠してみたいだとか、長い廊下で大熱唱したいだとか、ほんとにくだらないやつ。
放送室占拠以外はほぼ叶ってたよ、実際やってみたところで感動とかなにもなかったけどね。
今そんなリストを書くならなんだろう、と考えたらおもしろいくらいに「〇〇をやめたい」っていうものばかり浮かんだ。
割れた爪をいじるのやめたい、痒いとこかくのやめたい、他人に深入りするのやめたい、マシンガントークやめたい、好きって言いすぎるのやめたい、寝る前にスマホいじるのやめたい、考えすぎるのやめたい、早口やめたい、長風呂やめたい、言い訳やめたい
特に1番やめたいことは「わかる」って言ってしまうこと。
口癖ってほんとに厄介だよなー、なかなか癖ってとれないものでしょ?ってまた言い訳してるわ。
本当に大事な部分をわかっていないのにわかったような気で、知ったかぶりで「わかる」って言ってしまうの、なんで?自問自答。夜中の大反省会。
共感って大事だし、本当に理解してくれる人がいると心強いけど“理解した気になっている”人の「わかる」ってわかるんだよ。わかってないねってわかるの。
まあ本当に心から理解したい、というか理解しているから“その気持ちに共感するよ”ってな意味で「わかる」って使ってはいるんだけれども。これも言い訳です。言い訳という保険みたいな、免罪符みたいな。なんも免れていないのにね。
だから「わかる」って言っちゃったら最近訂正して「わかりたい」って言うようにしている。
でもなんだかんだ言ってやめたいことがたくさんあるのはその分たくさん何かを経てきたり、体験してきたってことなのかなーと、これを書きながら思ってきた。
ほんの数分前まではやめたいことばっかで人生詰んでるとすら思ってたのにね。そういうとこだよ私。