夢を諦めて生きるのが辛くなった君に(自分に)
書こうと思うと書けなくなるもので。でもそんな時でも書いていかなくてはならない世界に踏み入れようとしている気がするのです。
仕事ってそういうもので。
だから「好きなことは仕事にしないほうがいい」と話す人もいます。
書くことでお金を稼ぎ、飯を食っていくということは、
書けないときも、書きたくないときも、書かなくては。
今日の飯が、明日の飯が、食えないということ。
(そんなかつかつのその日暮らしをするつもりはないですが。)
私は何者か、何を成せるのか。考えていたら躓きました。
私は今日まで、一体いくつの夢を諦めて生きてきたのか。
自分の得手不得手を発見しては、目指し歩いた道を降り。
諦めたことを正当化するために、他でもない自分自身を納得させるために、新しい道を見つけて乗り換える。
何度繰り返せばいいんだろうか。一体いつゴールに辿り着くのか。
そもそもゴールがあるものではないのかもしれないけれど。
何も成さないまま、何者にもなれないまま、
いつも新しいコミュニティの中で「新人」を繰り返し。
歳ばっかり食っていく感覚。
自分の諦めた道で大成し輝く人を見ては、
自分の持ち得なかった才能を悔やみ恨み。
その人の隣で輝く、もしもの自分。指を咥えて眺める今の自分。
情けなくて堪らない。
あと何回自分に言い訳をしなくてはならないのか、嫌気がさして、
歩くことすら億劫になっています。
そんな今の自分の姿さえ、いつか思い出す時には輝いて見える時が来るのだろうか…早く大人になりたいものです。
まとまりのない呟きも、書いていればきっと、何かにつながると信じて。
今書いている次第です。
書けなくなった時、辛くなった時、寂しくなった時。
自然と音楽をかけています。
今の自分が欲している音を、耳と脳と、心に供給してあげるのが一番よく効きます。
そういう時、音楽と出会えている自分はいくらか幸せなのかなと思えます。
好きな音楽を仕事にしようとした時、どうしても辛く、音楽に救われながら、音楽に殺されていく気分でした。
仕事にはしなくて良かったのかもしれません。
私は人間という生き物が苦手で、
信じることも頼ることも愛することもできないかもしれないと、感じることが多々あります。
でも、そんな人間の作った音楽というのは、作った本人からは想像もつかないくらい、優しくて暖かいものです。
だから私は人間を嫌いになることができません。
私は人を温めることができないけれど、私の言葉で誰かの心が温かくなったり、それによって救われたり。そんな偶然が、万が一にでも起きてくれたら嬉しいなと。
人が生きる意味なんてわからないし、長く生きても死んでしまえば同じだと思って生きるのが嫌になる。でも、人が死ぬのは悲しいことだと思うし、一度も会ったことのない人の訃報を聞くだけで涙が出てしまうような心を持ち合わせてしまっているので。
私が長く生きることで、一人でもいいから死なないでいられたらいいな、
なんて思ったりはします。
そうやって書いていれば、その時は実感出来なくても、後で振り返った時に何か成していたと気がつける時がきたりするのかな。