夜 嘲 草 紙 (よしをざうし)
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愴浪と街をあゆめば大ぞらの闇
のそこひに春の月出づ
この歌を作つた頃の若山牧水がな
つかしい。それはもう再び取戻す
ことの出來ない昔の牧水だ。この
頃の夕暮れの街を散歩するたびに
僕は、この歌を思ふことしきりで
ある。
■
佐藤捷平氏の「夢を語る」を讀ん
で、僕は踊り出したいほどの感激
を覺江た。それは僕の純眞なよろ
こびの泡立ちである。僕も佐藤氏
と同じ夢を、今までにいくたびみ
て來たことだらう!現に今もみて
ゐるのだ。これからさきも同じこ
とだ、そしてならうことなら、そ
の夢を生々としたものに組立てゝ
眺めたいとのぞんでゐる。それは
きつと出來る、今に夢ではなくな
るーそんな風な强い希望を胸にひ
そめてゐる。佐藤氏が非常に氣持
のいゝ筆觸で氏自身の夢――そし
て同時に僕のゆめをもひろく世間
の人達に語つてくれたことは何よ
りも難有いと思ふ。僕は同氏を素
朴な眞面目な劇作家だといふこと
を前から感じてゐた。タイムスに
發表された氏の「峠の殺人」「海鳴
り」「聖笑ひ給ふ」の三篇の一幕物
しか讀んでゐない僕がこんなこと
を云ふのは、おこがましいかも知
れないが、氏は皮肉な人生觀を持
つたリアリストであると僕は思ふ
「峠の殺人」にしろ、「海鳴り」にし
ろ、ずゐぶん云ふべきところはあ
らう、が、その中のテーマの表現へ
來ると、氏の急坂を下るやうな皮
肉がマザ/\と生きてゐる。勿論
それだけで戯曲全体がいゝとは云
へない。もうすこし、劇としての
調和と統一とをよくすればすぐれ
たものが書けると思ふ。僕は心か
ら佐藤氏にそれをいのる。「劇塲を
救ふためには劇塲は破壊されなけ
ればならない。男優及び女優は災
禍によつて皆死絕江なければなら
ない。彼等は藝術を不可能ならし
める。」と、秋田雨雀氏を中心とす
る小劇塲主義の先驅座はその宣言
の冒頭に、エレオノラ、デュウゼ
といふ人の言葉を引いてゐる。こ
れは随分極端な叫びのやうにきこ
江るが。なけなしの金を叩いて大
劇塲へ行くたびに、僕はこの言葉
を痛切に感じずにはゐられない。
そして佐藤氏のやうに、村立自由
劇塲か、都市公共的自由劇塲かを
たまらなく愛するあまりさま/″\
な理想を夢みるのだ。僕たちは社
會政策としてとかのために、それを
のぞむのでは決してない。僕たち
は生きてゆく上の、各個人の持つ
てゐる、やむにやまれぬ、自由な
藝術本能を滿足させたいためだ。
今の醜悪な社會そのまゝの反影に
すぎない劇塲を亡ぼすために、僕
たちはまづ第一に何をしなければ
ならないか?それは社會革命と歩
調を揃へての劇塲革命だ。一人で
も多くの人が正當な、人間的な社
會革命へ走せ加はる必要があると
同じやうに、目覺めたる民衆の一
人のこらずが、自分達の生命を豊
潤にするために、この劇塲革命の
夢を現實に建設しなければならな
いのである。
■
かつて野瀬市郎氏も云はれたこ
とだが、獨乙の映畫は僕達の魂を
ゆすぶるやうな深刻さと凄絕さと
靑白い熱情とを持つてゐる。「カリ
ガリ博士の天幕」と「カラマゾフの
兄弟」の2つをみただけでもそれ
は驚異に近い感銘を僕たちの胸に
印象つける。ところが僕は近頃、
日活が作つた「どくろの舞」と松竹
キネマでつくつた「闇をゆく」と
「笑へ若者」とをみて、日本の映畫
にはやはり日本でなければ味ふこ
との出來ない或るものがあること
を强く感じた。尤も僕はいつか、
谷崎潤一郎氏の脚色した「蛇性の
婬」をみたときも、日本の靜かな
夢のやうな王朝時代のグロテスク
アトモスフェアを感じたのだが、
さきにあげた三つの現代生活を描
きだしたものからも、或る特殊な
淋しい、悲しい運命の縮圖ばかり
をするどくみせつけられたのであ
る。僕たちが日本でつくつた映畫
にひきつけられるのは、僕たちの
生れおちる刹那から深く血のなか
に混つてゐる、生と死とに對する
或る特別な强い觀念の痕跡がいつ
までもぬけることがないからでは
あるまいかー僕はそんなことをし
み/″\と感じたのである。「どくろ
の舞」は山田隆彌氏と岡田嘉子氏
とが主演となつてゐる、舞臺協會
の最初の映畫だ。監督は明かに失
敗してゐる。ムダな塲面の多いこ
と、字幕の少ないこと、むやみ矢
鱈にソフトフォーカスを使つたこ
と、映畫劇にシックリとなじんで
ゐないためか、熱心な俳優の努力
が十分に表現されてゐないで、か
へつてソハ/\してゐること、山
田隆彌氏の良禪が、自分の前途の
不安と戀愛への妄執とのジレムマ
に陥入つて苦しむ塲面を除いて、
舞臺でみるやうな熱情が出てゐな
いこと等は大きな缺點だらうと思
ふ。たゞ岡田嘉子氏の美しさはた
まらなくよかつた。僕の知つてゐ
る映畫女優の中でこの人ほど美し
い女はないと思ふ。あの映畫がひ
きたつてみ江るのも全くこの人の
力が大きいと思ふ。しかし、表情
の氣が利いてゐる點では「闇を行
く」の女主人公になつた栗島すみ
子氏にかなはないと思ふ。何しろ
すみ子氏は始めつからレンズの前
に立つて來た人らしいから塲慣れ
がしてゐる、何もかものみこんで
ゐるといふ落付きがある、僕の感
じだけて云へば最初から悲劇であ
るが「闇をゆく」の方が「どくろの
舞」より、映畫としてズツトすぐ
れてゐると思ふ「笑へ若者」はア
メリカまがひの淺薄なプロットと
アメリカまがひの、役者の變な表
情のために僕の心に何ものをも刻
みこまなかつた。
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最近柏崎で「黙示錄の四騎士」
をやつたさうだが、それはずゐぶ
ん大仕掛けな割合にあまり興味を
ひかないものである。それは決し
てヴァレンチノ氏が拙いためでは
ない。あの映畫のプロットが餘り
に寓意的なのと、イングラム氏が
餘りにシムボリカルな監督をした
ためだと思ふ。アメリカ謳歌を露
骨ににほはせたところなぞ、ずゐ
ぶんいやな感じがしたことを今だ
に記憶してゐる。(一九ニ三年三月)
(越後タイムス 大正十二年四月一日
第五百九十一號 三面より)
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