野瀨市郎氏に
×
自分の書いたものに好意を持つて讀
んで下さる人があることを知るのは、
嬉しい氣持がするものである。そんな
氣持など、甘いと言つてしまへば、それ
までだけれど。で、その人が、日頃僕の
尊敬する貴兄であるのは、僕にとつて、
この上ない幸福である。
×
貴兄は「サロメ」のバックのことに就
いて井戸のうしろの壁の繪がとげ/″\
しいと云つてゐられるが、僕は、あのと
げ/″\しさは、舞臺藝術者の意識して
やつた技巧だと思ふが、どうだらう。あ
の塲合、ヨカナーンがとぢこめられて
ゐる、陰鬱な井戸と、國を呪ふ、彼のも
の凄いさけび聲とを、よりエフェクチ
ブに、するために、わざと、あのバラの
棘を太くしたやうな繪を描いたのでは
あるまいか。僕は、あの繪の中に、花を
つけたのが、むしろ、不調和なやうな氣
さへする。私の考へだけで云へば、あの
井戸の塲面だけは、もうすこし、陰影の
あるものにしてほしかつた。あれでは
あまりに、明るく、はなやかすぎると思
ふ。だから、あのうしろの繪などは、な
くして、もつて、頽廢的な、模様のない、
壁の感じを出した方がよかつたやうに
も思ふ。
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芝居の塲合には、公開日までは、舞
臺監督が力いつぱい、彼自身の創造力
をはたらかすけれど一旦それが觀客の
前で演じられるときには、役者はどん
な間違をして劇の統一や効果をきづつ
けても、どうすることも出來ないだら
う。だが、活動寫眞の塲合は、役者の演
出なり、撮影なりが、監督の氣に入らな
いときは、幾度でもやり直しが出來る。
だから、一つの映畫を完全につくりあ
げて、私達に公開する以上は、それは、
監督や撮影者自身の藝術的良心の滿足
するものであると認めて差支へないや
うに僕は思ふ、だから、その映畫につい
ての責任の殆んど全部は彼等にあると
僕はこう思ふものである。
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映畫を映畫的に成功させたものを望
む貴兄の心持は、又そつくり、僕の心持
でもある。その意味でなら、戯曲「サロ
メ」は純粋の映畫的なものにあてはま
らないだらう。だが、一体、どこまで、映
畫と舞臺演出とは接觸してゆけるもの
か、又は、舞臺脚本をどれほどまでに映
畫化することが出來るか、それをみる
のも興味あることだらうと思ふ。その
意味で、ナジモバの「人形の家」を早く
みたいと思つてゐる。
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柏崎から出る、映畫雜誌にのる、貴兄
の文章は是非みたいと思ふ。僕もひょ
つとすると、ある活動寫眞會社へ入つ
て、自分の興味を持つ仕事を、自分の生
きる手段の一つとするやうになるかも
知れない。なにはともあれ、貴兄のやう
な、先輩が、僕ごときに好意のこもつた
意見をきかせてくれることは、僕のあ
りがたく思ふところである。甚だ、ぶし
つけであるが、ちょっと、お答へしてお
く次第である。(十二年十八日)
(越後タイムス 大正十三年一月六日
第六百三十ニ號 三面より)
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