カリガリ博士と梨
◇去年の眞夏の頃のことである。
私はO氏とつれ立つて、神田にあ
る、東洋キネマといふ、活動寫眞
舘へ、「カリガリ博士」といふ、獨乙
の表現派映畫を觀に行つたのであ
る。私はたしか、二度目、O氏は
始めてみるものであつた。むろん、
私から誘つてO氏をひつぱり出し
たのであるが、二人とも相不變、
泣きたくなるほど、貧乏だつたので
五十錢の入場料を二人分拂ふと、
私のポケツトには、一片の銅貨す
らなかつたのである。
◇「カリガリ博士」は、そんな僕の
貧乏の心細さを超越して――とい
つて勿論、消極的の意味にではあ
るが――やはり、素敵な藝術であ
つた。以前、私が始めて、この映
畫をみた頃は。恰も冬のことで、
あの映畫からうける感銘は、何と
も云へず凄絕な、みてゐるうちに、
狂人になりさうな程、强かつたが
今度、眞夏の一日いつぱいの勞働
に疲れて、だらけきつた神經と、
かすかすになつた頭でそれをみて
ゐても、恰度、氷山の頂上に獨で
立たせられたときのやうな、神經
の緊張と戦慄とを感じるのは、や
はり、永遠に偉大な藝術の力だ
と思つた。私のうけた、感を分拆
すると、それは、季節と相對的にす
こし異つてゐたが、あの映畫の持
つ、藝術の鋭さには、何んの變り
もなく壓倒されたのである。
◇一時間ほどでそれが終わつたので
私達は戶外へ出た。靑白い夏の夜
が、そこらぢゆう、いちめんに、ガ
サツな街路にみちてゐた。映畫に
同化され、ひきつけられてゐた僕
は戶外の街の灯にしろ、星の光
つてゐる蒼黒い夜空にしろ、餘り
にかけ離れた、現實の世界には、
容易に馴染めないものが、心のど
こかの片隅にわだかまつてゐるの
を感じたのである。夕なぎでムシ
/\する夜だつた。咽喉がピクリ
/\ひつゝるほど、空氣が變だつ
た。肉心のすべてが苦しかつたの
である。
◇(水が吸ひたい)といふ願は、そ
の時の私にとつて一番强いもので
あつた。恐らくO氏もさうだつた
らう、しかし繰返すまでもなく私
のポケツトには、一文もない。手
にはトウルゲネフの「父と子」とい
ふ小説を一冊持つてゐるきりであ
る。これを古本屋へ賣つて、ソー
ダ水をのむ氣になればなれたが、
私にとつて、「父と子」は賣拂ふ
に忍びなかつたのである。私は諦
めて、がまんし通す決心をしたが
O氏の弱りかたには同情出來た。
同情出來ただけに、僕の參りかた
もひどかつたとは云ふまでもない
◇「あつた、有つた」と、ポケツト
に手を突込んでゐたO氏は、懐か
ら何か摑み出しながら、まるで蘇
生した、漂流人のやうな表情で、
こう大聲をあげた。それは痛切な
喜びの聲の爆發とでもいふべきも
のであつた。
「九錢あつた。これで何かのめる」
「何かのめるかしらん。二人して」
「何か・・・ウーム」と彼は唸つて、
考へれば解るかのやうにして考へ
こんだのである。
◇そのうちに、二人の足は、ノロ
/\ながらも進んでゐたものだら
う、ふと氣をつけてみると、須田
町の、とある大きな果物店の前へ
きてゐたのである。夏の夜の果物
店は、さわやかに美しいものであ
る。靑白い瓦斯の光にうきたゝせ
て、店頭に並べてある、いろんな、
水々しい果實の色彩は、この場合
の二人にとつて、まさに、オーシス
であつた。また、狂暴的な慾望をお
どらせる、悪魔でもあつた。
◇「あの梨を買ほう。一つ四錢だか
ら、二つ買へるだらう」と、O氏は
勇敢に店頭へ進んでいつた。そし
て、小さな固さうな梨を二つ摑ん
できたのである。私にその一つを
くれた。ありがたかつた。足が自
然に暗い方へ向いた。ひとゝきも
早くガブリと噛りついて、甘い汁
を啜りたかつたからである。廣瀬
中佐とかの銅像の側に竝木がすこ
しあつて、便所がある。そこが、こ
の明るすぎる、さかり場としては
比較的うす暗い場所だつた。
◇そこへ佇んで、ガブリとやつた。
甘かつた。しかし、固かつた。あま
り汁がなかつた。それでも、生きか
へるやうな氣がしたのは、うそで
はない。全く、今まで、かすんで
ゐた視界が、冴江ざ江してきたほ
どだから。行人がふりかへつては
苦笑していつた。しかし、私達にと
つて、そんなことはどうでもよか
つたのである。汁を吸ひ貪つては
空を仰いでゐたのである。夏の夜
空の美しさが、はつきりと意識さ
れた。
◇小さな梨は、まもなく、カス/\
にされるまで、殘酷に吸ひジャブ
られたのである。核心の苦さも解
らないほどであつた。手に殘つた
ものをみると、まるで餓死した赤
坊のやうな感がした。その時、急
に、自分自身がたまらなく、醜く
感じられてきたのである。私はそ
れを地上へ叩きつけた。そして、
私はほしいまゝな、幻像を畵きな
がら、「カリガリ博士」の異常な、
息苦しいほどな、シーンを。ぽつ
り、ぽつりと思ひだしたのである。
恰も星のきら/\する、蒼空の
一角に、まざ/\とあの靑白い映
畫のひらめきをみてゐるかのやう
に、空を仰ぎながら。
(越後タイムス 大正十二年八月十二日
第六百十號 一面より)
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