地球人なめんなよ
人生、「何かを悟る」瞬間というのは、あるのだと思います。
私も、とあるヨガ教室に通っていた時に、そういう体験をしたことがあります。そのときやっていたことといえば、しんどいポーズをとって、20分とか30分とか、そのままじっとしているといった単純なことでした。何も難しいことではありません。
ただ、しんどいのです。しんどいので、「なんでこんなことをやっているんだろう?」という気になってしまいます。そして、そこで内観をするのです。
その苦しい状態から逃れるわけでもなく、それを受け入れつつ、「無我」や「無私」の状態に入っていくのだと思います。自らを、敢えてそういう状態に追い込むことによって、「悟り」の世界を切り拓いていくわけです。
これは、何も特別なことではなく、広く宗教などでも取り入れられている方法論のひとつだと思います。
座禅や瞑想のように静かな状態で、内なる存在との対話をするような手法もあれば、滝行や断食などの苦行によって、内観を促し、「悟りを得る」ような方法もあるということでしょう。
こうした苦行も、まさにそうした「悟りを得る」ために行われるものです。
9日もの間、断食・断水・不眠・不臥って、そりゃ大変です。マスコミが取り上げるのも、分からないでもないです。しかし、そればかりに目が行ってしまうと、本質を見失うことにもなります。
大切なことは、その苦行自体にあるのではなく、「悟りを得る」ことができたかどうかです。そして、その観点からいったら、わざわざ苦行をしにお寺まで行く必要がないことも分かります。
仮に、日常生活を送るうえで、困難や苦しみがあるとしたら、それがまさに「悟りを得る」ための材料なのです。わざわざ、お寺に苦行をしに行く必要はありません。日常生活は、「苦行の素」で溢れています。
それらを敢えて「素」と呼ぶのは、それが捉えようによっては、「悟りを得る」ための材料であり、それに溢れているということは、逆に宝の山に囲まれているということもできるからです。
「苦行の素」は、あくまでも「素」でしかなく、その人の捉え方次第で、どうとでもなるということです。
記事の冒頭で述べたように、私は、ヨガ教室で、敢えて自分からしんどいポーズをとって、そのしんどさと向き合うようにしていました。しかし、人によっては、そんなものが全く必要ないという人もいるはずです。
実社会で生きているだけで、しんどいという人は、たくさんいると思います。そんな人は、わざわざヨガ教室やお寺に行く必要もありません。
なんだそれーーー。大チャンスじゃないですか。
それをただの「しんどいこと」と捉えているから、いつまで経っても、そこから抜け出せないのです。そこから学び、「悟りを得る」ことができれば、そんな「しんどいこと」は、どっかに消し飛んでしまいます・・・で、また次の「しんどいこと」がやってくるのです。
それが分かっちゃったら、そもそも心の底から「しんどいこと」なんてものは、なくなってしまうことでしょう。
「アミ小さな宇宙人」の話です。
この際、本当に宇宙人がいるかどうかという議論は、横に置いておきます。今、それはどうでもいいことです。
ただ、仮に宇宙人がいたとして、地球人が、彼らに比べて下等であるかのような考え方に対して、私は異論を挟みたいと思っています。
こんなに「苦行の素」だらけのところに住んで、そこでバッチリ修行をしている地球人です。「悟りを得る」人たちが、続出するかもしれません。もしそうなったら、地球人は、そこらであぐらをかいているような宇宙人よりも、ずっとずっと高度な生命体になっているかもしれません。
てなわけで、今日の結論・・・「地球人、なめんなよ」ってことです。
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