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全人類は「お客様」

頭では分かっていても、心や感情がついていかないことなどというのは、往々にしてあることです。

以前、こんな記事を書きました。

物理的なことは、それがどう具現化するかの話なので、細かく考える必要はありません。先に「自分は彼らとは違う『別の種』だ」と考えるだけで、進化の第1ステップは踏んでいるということです。
そして、そう考えてみたら、今の人類同士の争い自体が違って見えてくるはずです。そう、野生動物の捕食シーンみたいなものです。天然のサファリパークのなかで、日々、自分とは違う野生動物(人類)が捕食し、捕食されているわけですから、それは大変です。もちろん、「かわいそう」なことで溢れています
でも、それだけということでもあります。関わることはありません。過度に感情が揺さぶられることもなくなります。

「「新種の人類」は人類に関わらぬ」より引用

今の人類の問題向き合いつつ、自分自身、人類とは違う存在である「新種の人類」になってしまうことで、新しい世界が開けていくのではないかという内容です。

そう・・・そう思いました。わずか3か月足らず前の記事です。

それは、今も変わりません。変わらないどころか、むしろどんどんと加速してきています

新種の人類」とは、どういうものなのか、何となくのイメージはありました。それは、この次元を超える「神」のようなイメージです。そして、きっとそういう方向に向かっていくのだろうとは感じていました。

ただ、実感として「うぉぉぉ、本当にそうなんだ」というところまではきていませんでした。それはまさに、頭では理解していても、心や感情ではそこまでは追いついていないような状態です。

しかし最近、「創造主としての自覚」を持つようになって、「うぉぉぉ、本当にそうなんだ」という感覚になってきています。


この宇宙の創造主なので、この宇宙の出来栄えには、いちいち感心してしまいます。

このとき、私自身、頭でそのような理解をしていました
しかし最近、「創造主としての自覚」を持つに至って、「うん?なんか俺、すごいの作ったんじゃね?」などという実感を伴うようになったのです。この宇宙の美しさ(仮想現実としてのとてつもない出来栄え)に気づいてしまった感覚です。

「毎日が奇跡とは?」より引用

そして、そんな感覚になってしまうと、この世界のなかで生活をしながら、「この宇宙こそが生きる場所」と信じてくれている人々に対しては、自ずとありがたい気持ちでいっぱいになります。

喩えるならば、自分が作ったゲームのなかで、そこに没頭して、一所懸命にプレイしてくれている人々が、熱烈な「お客さま」にみえてしまう感覚です。

それも筋金入りです。

このゲームの外側の世界のことなんて、ほとんど考えず、このゲームをメチャメチャ真剣にプレイしてくれているのです。そこも含めて、このゲームの出来栄えがたまりません。感動です。


そう思い始めたら、唯物論的な思考の人たちに対する見方も、だいぶ変わってきました。

しかし、唯物論的な思想によって、世界を支配しようとしている人々がいるとしたら、それは大変都合が悪いことです。彼らは、物質世界のルールこそが絶対であると信じ込ませ、そのなかで事を運びたいと考えていると言われているからです。
けれども、それを超越したルールに気づかれてしまったら、ゲームが変わってしまいます。それまで強者だった彼らも、そのルールを熟知し、それを使いこなせる人々が出現してしまったら、その地位を追われてしまうかもしれません。それは彼らにとって、大変困ることになるでしょう。

「ルールを制する者が全てを制す」より引用

唯物論?バカ言ってんじゃねえぞ?その上があるんだよ」

以前は、そんな感情がありました。しかし、今はちょっと違います

「『この宇宙』の出来栄え、メッチャ褒められてるじゃんっ!!!」

唯物論なんてものが議論されるということは、この宇宙の物理法則が整いすぎていて、それだけで完結しているかの如く錯覚してしまうということです。メチャメチャ凄いことではないでしょうか。

そしてさらに、それを信じて、一所懸命、このゲームのなかで設定された指標のために生きようとする人たちがいるのです。そんな「お客さま」の悪口なんて、とてもではないですが言えません

一所懸命、プレイしていただき、ありがとうございますっ!

そんな気持ちになってしまうのです。


社会の深刻な問題、本当にいろいろあります。いろいろあるのは知っています

けれども、それらも全部、プレイヤーの「お客さま」が一所懸命にやられていることです。このゲームのなかで、ルール(物理法則)に従ってプレイされているに過ぎません。善悪の問題もあるでしょうが、それらが入り乱れているのは、この宇宙が始まってから、ずっとそうです。それは、どうしようもないことです。

ハッピーエンドの映画だって、があったり、困難があるからこそ成り立つのです。最初から何の問題もなく、何の試練もなかったら、映画だって始まりません


そう考えたら、社会が破滅しそうな重大な問題に対してだって、いちいち「あーだ、こーだ」と論うのは、野暮ったくてしょうがないように感じてしまうわけです。お愉しみ中「お客さま」に対して、チャチャ入れるなんてできません。



最近、そうしたことを頭のなかでの論理ではなく、心と感情を伴った状態で、理解するようになってきました。そうなると、世界が俄然違ってみえてくるのです。


ふぅ・・・知ってます

私、イッチャってます。イッチャってますから、もうこんな話は、あまりしてもしょうがないかもしれません。

ただ、グレートリセットに向けて、人々の生活や安全命や精神脅かされればされるほど、グレートアウェークニング(大覚醒)というものも促されていくような気がしています。

だからきっと、イッチャってる人が出てくるのも、しょうがありません。そして仮に、この記事を読んでる人のなかで、「自分もイッチャってる」と思う人がいるとしても、ちょっとだけ安心してもらっていいように思うのです。

これからは、きっとそういう時代なのだと思います。


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