【中世⑦】『狼の口 ヴォルフスムント』~十字軍と西ヨーロッパ世界の分岐点~
※ 本記事は記事シリーズ「あのマンガ、世界史でいうとどのへん?」の記事です。
※ サムネは『狼の口 ヴォルフスムント』新装版1巻表紙より。
中世後期ヨーロッパにおける大事件とは何か?
そのように問われた場合、主に二つの事件が答えとして挙げられると思います。一つは前記事で既に紹介した英仏百年戦争。そしてもう一つは、世界史上でも最長かつ最大といっていい軍事作戦である、十字軍の派遣です。
十字軍の派遣自体は、本記事シリーズの中ですと既に『アンナ・コムネナ』の記事で少し言及しているところではあります。しかし、この大事件は東欧(ビザンツ帝国)に留まらずヨーロッパ全体に対して多大なる影響を与えることになり、以後の歴史を語るにスキップできない事件ですので、今回の記事で改めて、少し丁寧に説明をさせてください。
この大事件のそもそもの原因は、『図書館の大魔術師』の記事で説明しましたイスラーム圏の伸張です。
7世紀初頭にアラビアで生まれた新興宗教イスラーム教は瞬く間に中東世界を席巻。軍事的にも文化的にも非常に進んだ勢力となり、ヨーロッパ世界の東端に陣取るビザンツ帝国に強い圧力をかけるようになります。ビザンツはこれに対し粘り腰を見せますが、戦況が怪しくなった11世紀末、一度決別したはずのカトリック教会にたまらず救援要請(要請したのはアンナ・コムネナのお父さんです)。これを受けて西欧世界は多数の諸侯・騎士から成る十字軍を編成し、イスラーム圏へ侵攻するのです。
結論から言いますと、この十字軍はその後も何度か派遣されたものの、本来の目的を達成することはできませんでした。幾度の攻勢にもかかわらずイスラーム勢力を押し戻すことはできず、第4回十字軍(13世紀初頭)に至ってはなぜか味方のビザンツ帝国に攻め入りこれを占領する迷走ぶりを見せています。
一方で、この大規模軍事派遣はイスラーム圏ではなく、ヨーロッパ社会自身に対して不可逆の変化をもたらすことになりました。
具体的には、まず商業の復活です。中世になり、西欧ではローマ帝国時代のような貨幣経済が失われたという話を『ヴィンランド=サガ』の記事で書いていますが、十字軍の派遣により東方との交流が急速に進むと、これにより遠隔地貿易が復活していきます。
また、これに伴う貨幣経済の広がりは、これまで軍事面で脆弱であった国王が貨幣をもって自ら軍事力を整備することを可能にし、これと入れ替わるように、十字軍で疲弊した諸侯・騎士階級は居場所を失っていきます。すると、『ブルターニュ花嫁異聞』の記事で書いたような、農奴らを囲い込む地方諸侯が力を持った中世ヨーロッパの世界観は徐々に崩れていき、国王というトップの下で国がまとまる、近世的な国家像がここでようやく生まれてくるのです。特に、百年戦争に勝利しイギリス勢力を駆逐したフランス、そして、百年戦争敗北後の内乱(薔薇戦争)を勝ち抜いた王家が強力な王権を打ち立てたイギリスは、その後中央集権的な国家を着々と整備していきます。
一方、この流れに乗れなかった国もありまして、これがドイツとイタリアでした。ドイツは10世紀にローマ教会の庇護者として「神聖ローマ帝国」を名乗るようになりますが、上記のような諸侯の弱体化が進まず、14世紀には皇帝の選出権が特定の少数の諸侯にわたるという、英仏とは真逆の事態に。そしてやがては、諸侯の中で抜きんでた力を持つようになったハプスブルク家による帝位の独占が始まるのです。また、イタリアもその中心に教皇領が陣取ったほか、追ってルネサンスの器となる多くの都市国家が分立するなど、統一の機運は起こりません。この独・伊の分裂は結局近世終盤の19世紀まで続き、この遅れは20世紀に入ってもなお、両国の行方に大きな影響を与えることになるのです。
そんな、ある意味国家の重大な岐路に立っていた時代のドイツ・イタリア、その国境地域を舞台にした歴史ドラマが、久慈光久先生作『狼の口 ヴォルフスムント』です。
「狼の口」(ヴォルフスムント)とは、ドイツ・イタリアを分断するアルプス山脈に設置され、両国間の人の行き来を管理した関所の通称です。
本作序盤はおおよそ一話完結の構成をしており、様々な背景から何としても関所の向こう側に行かなければならない人々と、狼の如く冷酷な関所の役人ヴォルフラムによるその取締まりが描かれていきます。各話に共通する登場人物は基本的にヴォルフラムのみであり、言ってしまえばヴォルフラムが主人公とも言えるような内容なのですが、毎話描かれるのは、代わる代わる登場する無辜の民がこのヴォルフラムの手にかかり、理不尽に処刑されていく惨劇の物語。そのドラマは惨く、心かき乱されるものであり、作中の民衆だけでなく、読者もヴォルフラムへの憎しみをかきたてられるような内容になっています。
しかしその序盤が終わるころになると、そもそもなぜ人々は命を懸けてまでこの関所を通過しようとしているのか、そのそれぞれの背景事情が徐々に一本の線でつながっていきます。そしてやがては、関所をもってこの地域を支配しているハプスブルク家と、その支配からの独立を図り、関所の向こう側の勢力と内通する民らの反攻という、本作品が描いていたものの全容が明らかになっていきます。このあたりで本作は一話完結構成を止め、民による関所の襲撃・攻略を、そして爆発する民の凄まじい怒りを描く本編へと移行していくのです。
この大胆な二段階構成が、読者と本作中の民の感情の同化をさせ、臨場感を大きく高めてくれる効果を持つのは明らかでしょう。
もともと「歴史もの」が持つ大きな魅力として、「実際に起こった出来事であるが故のリアリティ」というものがあります。時代も地域も現代日本からは遠く離れた世界であるがゆえに、今では考えられないようなフィクションのような物語が描かれるのに、それは(脚色が強いこともあるものの)実際に起こった出来事である。ゆえに私たちはより深く、その物語世界の中に実際にいるかのようにその作品に没頭できるのだと思います。
しかし本作はそれに飽き足らず、序盤のエピソード群で民のハプスブルクに対する、ヴォルフラムに対する怒りに、私たち読者をリンクさせてくる。だからこそ、本編における民の怒りの爆発がさらに真に迫ってくるものになるし、読者の彼ら彼女らの戦いへの感情移入も、さらに強いものになる。その点で、「歴史もの」の魅力を最大限に引き出した秀作だと思います。
なお、本作で描かれる独立戦争を通してハプスブルク家から自治を勝ち取った地域は、現代でも独立国家として存続しています。
その名はスイス連邦。かの穏やかにも見える国がなぜ兵役義務という物騒な制度を抱えているのか、その凄まじい歴史を垣間見ることができる作品でもあります。
次回:『チ。-地球の運動について-』~人間は「宗教から科学へと進歩している」のか?~