【中世④】『アンナ・コムネナ』~ゲームのルールを書き換えるということ、歴史を振り返るということ~
※ 本記事は記事シリーズ「あのマンガ、世界史でいうとどのへん?」の記事です。
※ サムネは『アンナ・コムネナ』1巻表紙より。
ここ直近の2記事では、古代ローマ帝国が滅亡し中世を迎えた西ヨーロッパ世界の展開を見ていきました。異民族の侵入に端を欲した古代ローマ帝国の分裂、そして分裂後の西ローマ帝国の滅亡により西欧世界は戦乱の世に突入しますが、カール大帝(シャルルマーニュ)がこれを再統一します。カール大帝の大国はその後まもなく分裂しますが、その分裂した国それぞれがフランス、ドイツ、イタリアの原型になり、ここに今の西ヨーロッパのかたちが現れ始めるのです。
では、分裂したローマ帝国のもう一つの片割れ、すなわち「東ローマ帝国」はその後どうなったのでしょうか?主に今のトルコ、ギリシャを勢力地に置くことになったこの国は、その名に冠する「ローマ」(イタリア)からは離れたところに位置しますので、西側に比べるとサブ的な立ち位置とも感じられるかもしれません。しかし、東ローマ帝国は結果的に西ローマ帝国(476年滅亡)よりもさらに1000年も長く存続し、「ビザンツ帝国」という名で東欧世界の雄として君臨することになります。伝説の古代帝国のもう一人の落とし子は、意外な第二の人生を送ることになるのです。
もう少し具体的に見ていきましょう。ビザンツ帝国は異民族侵入に端を欲した争乱をある程度免れていましたので、私たちが想像するような「中世ヨーロッパ」とは少し異なる世界観を構築することになります。特に、中世に入り自給自足社会に戻ってしまった西欧と違って東欧では貨幣経済が衰えず、首都のコンスタンティノープル(今のイスタンブール。現トルコの首都ですね。)は世界商業の中心として栄えます。2つ前の記事でとりあげた『ヴィンランド・サガ』では、主人公トルフィンがイッカクの角を金に換えるために北欧からギリシャまで旅をするくだりがありますが、なぜ金に換えるためにわざわざ北欧からギリシャという遠方の地まで出向かなければならなかったのか、その理由の片鱗がここにあると思います。
また、文化面ではいわゆるローマ=カトリック(今のバチカン市国を中心とする、私たち日本人がよくイメージするキリスト教)とは異なる、「正教会」という別流派のキリスト教を構築します。こちらのキリスト教はローマ=カトリック教会とはお互いを破門しあう(!)ことで決別するものの、中東地域に面している関係で、この頃強大になりつつあったイスラーム教勢力によるキリスト教圏侵入を留める最前線を張ることになります。また、その戦況が厳しくなった際には西欧世界からあの「十字軍」を召喚しこれと共闘する等、キリスト教世界=ヨーロッパ世界を守護する防波堤として、長らく持ち堪えることになるのです。
そんな、日本人にとってはあまりなじみ深くない帝国を舞台にした連載中マンガが、佐藤二葉先生作『アンナ・コムネナ』です。作品名にもある主人公アンナは12世紀前半に実在したビザンツ帝国皇女であり、本作は彼女の半生を史実に沿って描く伝記作品です。
伝記作品、というとなんだか重苦しい響きがありますが、この作品のまず面白いところは、伝記でありながら形式が(ほぼ)4コママンガであるということでしょう。連載場所も星海社運営の「ツイ4」という、いろんな4コママンガが無料で気軽に読めるサイトでして、本作も全カラー、原則1ページ1エピソード、コミカル描写多数とすいすい読める作品になっています。
しかしながら、その中に突然長編エピソードが入ることがあり、内容としてはそれぞれアンナの人生の節目を描くものになっているのですが、これらが本当に素晴らしいのです。
皇女のアンナには、自分が次期皇帝になって戦乱に沈むこの世界に平和をもたらすという野望があります。しかし、例によってこの時代皇帝というのは男が就くものであり、実際に帝位継承権はアンナの弟にありました。それでもアンナは帝位継承という一縷の望みを捨てず、当時女性には不要とされていた勉学に励み、平和な治世への途を夢見るのですが、彼女が大人になっていくにつれて目にするのは、宮廷で男性たちが繰り広げる血生臭い権力争い、そして武力という男性的な「暴力」によってこそ皇帝のリーダーシップが生まれ、内外の問題が解決されていくという現実。そんな中で軟弱とされる女が生き残るには、「子を産む装置」という女の役割に徹するか、もしくは男が誇る暴力を押さえつけるほどの、より残虐な暴力を手にすることが必要だったのです。実際にアンナが尊敬する母と祖母はそのルールに乗って、母は身を削って子を産み続け、一方祖母は家族を守るために敵対勢力と裏でつながっていたアンナの婚約者を暗殺していたのであり、アンナはそういう現実を後から知っていく。そういうエピソードが、要所で重ねて描かれていくのです。
だからアンナは気づきます。今この国を取り巻いている、残虐さという「男らしさ」のゲームに乗ってこのゲームに勝利したところで、彼女の目指す「平和な治世」が実現するはずがない。彼女の野望を実現するには、まずこのゲームのルールを、この時代を支配する価値観自体を覆さなければならない、と。そうして彼女はやがて、この「男らしさ」とはまた別の価値で人を導くことはできないのか、人々に信奉される別の価値を物語ることはできないのか、そういうことを考えていくようになるのです。
こうしたアンナの「既存の価値観への疑念」というのは、改めて考えると極めて現代的な所作ではないでしょうか。現代でも例えば「女性は結婚して子どもを産むものだ」とか、「男は男らしさを持っていてこそ一人前だ」といった旧来の価値観を疑い、新たな生き方を模索していく、ということが叫ばれていて、マンガという分野でもそうした問題意識をもった作品が近年多数創作されているのは、おそらく多くの人が頷くところでしょう。そして、そんな私たちの現代的な感覚が、本作ではアンナの半生に自然と見出されている。遥か1000年ほど昔の、私たちとは文化も身分も何もかも違うある女性の人生を、現代の私たちと共通する視点から語り直すことができるというのは非常に面白いことだと思います。
いや、もしかするとそういう語り直しこそが、もしかすると「歴史に触れる」ということの最大の効用なのかもしれません。私たちは現代でも、価値観の対立、貧困、戦争といった問題に次々と直面し、その解決策を迫られています。しかし、そんな新しい問題に直面する中で先人の軌跡を改めて振り返ってみたら、実はある昔の人が私たちの問題と同じ問題を抱えていた、ということが新た見えてくるかもしれない。そして、その人のその後の人生は、もしかしたら今私たちが抱えている問題を解決するためのヒントになるかもしれない。歴史は私たちの背中を、時に押してくれるものなのかもしれないのです。
だとすれば、歴史はそこにあるだけで意味があるものではないのでしょう。歴史は「終わった物語」として私たちの後ろ側に横たわっているだけではなく、きっと私たちが幾度となく、その都度違った視点から振り返ることで、その度に何度も何度も、以前とは違った命を吹き込まれるものなのです。そしてそれこそが、「歴史マンガ」というものの営為の意義の一つなのだと思います。
なお、史実ではアンナ・コムネナは結局皇帝にはなれないのですが、やがて西洋中世では非常に珍しい、女性の「歴史家」として活躍することになります。残虐さという「男らしさ」を上書きする価値のヒントを過去に求めて、彼女もまた歴史の遥か彼方へとその手を伸ばしたのでしょうか。