3/3 「この」痛みと目の前にある「痛み」
痛みには個人として味わっている「この」痛みと、一般的な意味での「痛み」があり、このニつを混同されると会話などが噛み合わなくなる。
そんな記事を前回書きました。
今回はその続きです。
これは私の持論なのですが、痛みと本当に真面目に向き合っている人は、他人との痛み比べをしません。
比べられるわけがない、比べられて嬉しいわけがないと考えているからです。また比べる余裕がこちらにありません。
以前人に痛みの話をした時、「それは私の◯◯の時の痛みとどっちが痛いかな」と問われたことがあります。私は言葉を濁してその場から逃げました。
相手の方とは付き合いが長いため、今では私の痛みは私の痛みとして扱ってくれているように思います。
そういったすべての経験を踏まえて、私なりに結論しました。
人の痛みはわからないし、伝わらない。これは今の私の大前提です。
もちろんわからないからといって、わからなくてもいいということではないとも思います。
やはり痛みを分かろうとしてもらえるのは嬉しいに違いないからです。
比較とは集団に、あるいは人前に「この」痛みを提示することです。一方で、痛みは人を個人に還すものだと私は考えています。
要は両者は相性も悪く、成立するとは思えません。
それは寂しいことではあります。痛みが強ければ強いほど内側に閉じこもってしまう。
だからなおさら外に意識を向けることが大事だと考えます。
塾講師をしていても、相手の「わからない」との向き合い方は、痛みに対するそれに似ていると思います。
伝える内容自体はそれこそ抽象的で普遍的なことですが、生徒の「わからない」や成績の悩みは個々のものであり一般化していいものではありません。
確かにつまづきやすい箇所はあり、講師として一般化できるような技術もあります。
それでも目の前にいる個人のわからない理由や、つまづきやすさは一般化できないし、するべきでもない。そう思います。
ただバランスは難しいです。
ある程度の規則性というか経験論が必要になることもある。しかしそれに頼りすぎると、目の前の個人が求めていないことまで提供したりもする。
痛みや悩みでも、個人の話を聞くことが大事なこともあれば、一般論、つまりどのくらいで治るかや、自分を含めた他の人の経験を参考にすることもあります。
それでも、今目の前にいる人の痛みが確実にあることを忘れない、それが大切だと思っています。
本日は以上です。
読んでくださる方がいらっしゃいましたらありがとうございます🙇♂️
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