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ようやく心と体が落ち着いてきたので、久々に記事を。 最近よく思うのは、良い人間関係の形成のためにできることは本当に少ないということです。 積極的に動こうにも、相手がこちらをどうとらえるかはわかりようがないし、それは相手との距離が遠ければ遠いほどなおさらです。 外出しづらい現状ではとりわけ人とのつながりを感じづらいとも思います。 では何ができるか。 それは自分が人に受け入れられる準備をしておくこと、あるいは受け入れられた時に納得できる心当たりを作っておくことだと考えます。
たくさんの複雑な過程を経て、最後には結局一番簡単な結論、あるいははじまりに行き着くことは多いと思います。 後者は「初心にかえる」ということでしょうが、私も何度も経験しています。 はじまりの着想に工夫や改良を加えていく中で、最初にあったひらめき、肝心のエッセンスを忘れてしまう。 やがてはじまりに戻る、その再会の驚きという側面もあると思います。 ただ、こういった過程を「単純なことほど難しい」のような言葉に圧縮しようとすると、「単純」とか「簡単」という本質よりも、「難しい」 と
先日記事に書いた通り、しばらくは毎日の投稿という自分へのノルマを中断するつもりです。 直接的な理由は、慢性痛が安定していないことです。 近頃痛み対策としてできていたことが、新たな痛みのためにうまくできないかもしれない。 そういう状況なので、他の対策が必要になっています。 まずは痛みの伴う作業はなるべく減らしたい。そう考え、「毎日更新」をやめることにしました。 初回で触れたように、毎日更新を明言した理由は習慣化するためです。 一方で私は以下の記事で書いたように、治療に必要な信
最初の記事で「毎日少しずつでも記事を書く」と書きました。 ただ最近状態が思わしくないため(慢性痛がもう一種類増えそうな具合です)、安定するまでは「毎日」という自分への規則をなくすことに決めました。 詳しい理由にはまた後日触れられればと思います。 もし読んでくださっている方がいらっしゃいましたら申し訳ありません。 やめるつもりはないので、無理なく書いていければと思います。 #闘病記
今回は、以前お伝えしたスマホ関連のストレスについて書きたいと思います。 スマートフォンやタブレット端末を操作していると、痛みが強くなるタイミングが多々あります。 私の患っている二種類の慢性痛はどちらも原因がはっきりとはわからないのですが、少なくともストレスに関わる事は間違いないようです。だから健康な方よりもストレスに敏感にならざるを得ないと思っています。 そして上記の痛みは、直接的に現れたストレスだと私は考えています。 その原因は以下の二つにあると思います。 一つは待ち時
何かを始めたら、キリがいいところまでなかなか終わらせることができない。 私に限った話ではなく、よくあることのように思えます。 例えばまさにこの記事を書くことがそうで、一度始めたらなかなかやめようと思えません。 以前記事で書いたように、回数や時間で制限するのも一つの手です。 制限できなかった場合は、楽しみにしていること(例えば好物を食べること)をその週は禁止する、といった具合です。 しかし今はさらにやり方を変えています。 負担のかかることを一度にまとめてするよりも、小分けに
後悔していることは、多くの人にいくらでもあると思います。 私にも嫌というほどあります。 ただ当時のそれぞれの状況を考えると、「他の選択肢がとれたのか?」という疑問は浮かびます。 確かに今ならもっと良い選択ができたはずです。 しかしそれは結果を知っているからであり、また時間が経ってから考えているからに過ぎないことが多いです。 当時は当時で自分なりに最善で、また必要だと思われる選択肢をとったように感じます。 ふざけていても、それはその時の環境への反発や抗いたいという気持ちがそ
今日は全体的にしんどいので、作った料理の記録だけに留めます。 料理をしている間は割と痛みが和らぐ、あるいは忘れられるのがありがたいです。 クックパッドのレシピに、ニンジンとナスなどを入れてアレンジしました。 とても美味しくできました。魚をとりたい時にサバ缶は便利ですね。 #闘病記 #料理
私は趣味でドラゴンクエストのアプリゲームをしています。 純粋に楽しめれば良いのですが、わずかなストレスでも慢性痛の引き金になるため、そう頻繁にはできません――たぶんソーシャルゲームやスマホ全般の何がストレスになっているかについては、また書くように思えます。 だから私なりに、依存とまでは言わずとものめり込むことへの対策を考えていて、今回それに触れたいと思います。 前提として、私は毎週木曜日に好物の甘いものを、日曜日にポテトチップを食べるようにしています。 ゲームの内容にも
前回は意味づけされない痛みについて書いたので、今回はそうでない痛みについて書こうと思います。 まず痛みプラスの面から。 よく言われることですが、一度ひどい病気や痛みを経験した人は、他の人を気遣うことができるようになることが挙げられると思います。 あくまで基準は自分の場合になりますが、痛みや苦しみにとらわれている人が何を言われたら嫌で、何をされたら負担が減るかを少なくとも気にかけることができる。 他人の痛みに関心を持つようになるのは、痛みを経験して得られることの一つだと思い
今回は痛みについて私が考えていることを書きたいと思います。 それは以前の記事で書いたように、痛みはまず痛みとしてとらえるべきだということです。 「痛いけど」ではなく。 「痛いから」でもなく。 痛みに何の意味を持たせることなく、ただ痛みそのものとしてとらえる。 理由をつけたり、役に立てたりするのはその後でいい。そう思います。 痛みはさまざまに解釈できます。 例えば ・今の痛みは将来役に立つ ・痛みを知っている人は、他の人にも優しくできる ・痛みは体にとって必要なサインである
最近汗や涙によるデトックスを勧められ、映画などを見ています。 しかし恋愛がどうこうは眩しすぎてかえってフラストレーションが溜まるため、少年漫画や友情ものにジャンルを絞っています。 最近プライムビデオでドラえもんの全映画が見られると知り、さっそくいくつか見ています。 その中で感じたことを、今日は書こうと思います。 作品全体はいわゆる「のぶ代ドラえもん」の後期らしい内容で、それに対する良し悪しの評価は控えます。 気になったというか気付いたのは、ドラえもんがロボットとして持って
まずは前置きです。 9割という数字は私の感覚から選んだものです。 人によってはもっと多いと思いますが、強調したい点は数字ではありません。 デリケートな問題だと思い、また話の意図するところと重なるのであらかじめ書かせていただきました。 自分の周りに敵しかいないように思えることはあると思います。 個々の事情を知りようがないので具体的なことには触れませんが、社会で生きていくとどうしても摩擦が生じると思います。 では現実に、はっきり敵と呼べる人間が実際に何人いるのか。つまり意図的
前回の記事で、闘病中の私にとって正しいのは治療に必要なことであり、正しくないのは必要でないことだと書きました。 今思えば、「喜びを増やす、あるいは痛みを減らすことが正しく、痛みを増やすことが正しくない」と言うこともできると思います。 ただそれを文字通りにとらえると、自分が痛くなければ何をしてもよいのか、となります。 だから私は痛みに広い意味を持たせ、以前触れた良心の痛みを含ませます。 たぶんぬるいことを言っているとは思うのですが、ぬるさは私にとって痛みではないので気にしな
闘病生活をしていて特に迷うのが、何を信じてよいか、また何を信じてはいけないかということです。 本や話、あるいは記憶の中で繰り返される言葉は頻繁に私を焦らせたり、引き止めたりします。 現状、正しいこととは「治療のために信じる必要があること」であり、そうでないこととは「その必要がないこと」です。 だから取捨選択する必要があります。 それでなくても、私はある程度真実は自分で決める権利があると思っています。 もちろん自分の内側での話です。 例えば、「思い立ったが吉日」という言葉。
痛みには個人として味わっている「この」痛みと、一般的な意味での「痛み」があり、このニつを混同されると会話などが噛み合わなくなる。 そんな記事を前回書きました。 今回はその続きです。 これは私の持論なのですが、痛みと本当に真面目に向き合っている人は、他人との痛み比べをしません。 比べられるわけがない、比べられて嬉しいわけがないと考えているからです。また比べる余裕がこちらにありません。 以前人に痛みの話をした時、「それは私の◯◯の時の痛みとどっちが痛いかな」と問われたことが