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3/2 「この」痛みと「痛み」

痛みを患っていていつも思うのは、「伝わらない」と言うことです。
伝わらないことこそ痛みだと言いたくなるくらいです。
思うに痛みにはとらえ方がニつあって、それが「この」痛みと「痛み」の分類です。

前者は個別の痛み、自分の痛み、「これ」としか言いようがない痛みです。
後者は人間としての痛み、定義通りの痛み、分析できる痛み、診察される痛みです。
個別と一般、あるいは普遍と言ってもいいかもしれません。

これらのうちのどちらの話をしているか。そこで食い違うことが多いように思えます。
前者はまさに今私が感じている痛みであり、鮮烈で切実です。
後者は科学的な分析に適うような、役割としての痛み、あるいは説明できる痛み、客観化された痛みです。

以下の本に、次のような警句が「悪魔の囁き」として挙げられています

痛みについていえることはただ一つ、痛みはその患者が生きていることの証である。



「この」痛みの特色は、人に疎外感を与えることのように思えます。
どんなに社会に、集団に属していると思っていても、「この」痛みを感じた時、個人が現れる。
快楽は共有できても、痛みは共有できない、あるいはする利益が少ないからかもしれません。
そして疎外感もまた紛れもなく痛みです。

順序や因果関係は分かりませんが、大勢の人に囲まれている有名人が訴える孤独は、そういった痛みに思います。
「この」痛みは断じて字義どおりの痛みではない。分析しても解釈しても、最後にはただ「これ」としか言いようがない。
そのような痛みを一般的な意味での痛みととらえると、恐らくは齟齬や誤解が生じます。


確かに痛みを一般化することや客観的な分析にも意義は大きいと思います。
例えば、私も治療院に行って「今日は体調の悪い人が多い」という話を聞くことがあります。
気温とか気圧とかの原因。そしてその影響が私だけに出ているものではないという知識は事実、有益です。
対策や心構えができるし、他の痛みを抱えている人をいたわることもできる。痛いのは私だけではないと言う安心感もあるかもしれません。

それでも、痛みがひどい時には「そういう事実が聞きたかったわけではないんだ」と思ってしまうことがあります。
「この」痛みの話をしていて、一般の痛みの説明をされてもしっくりこない。そういう場合、多くは聞いてほしいのであって、解釈してほしいのではない。
そう思います。

むろん説明してもらうことで心が落ち着くことはあります。それに、たぶん先生は「この」痛みのことをよくわかっています(信頼できる方なので)。
それでもこのことを記事で書くのは、やはり「この」痛みを「この」痛みとしてとらえてほしい、ただそれだけでいいという願いがあるからだと思います。

「ダルク」という依存症回復者施設では、患者がお互いの話をただ聞くだけのミーティングを行っているという話を聞きました。解釈や説明は一切せず、頷きもしないそうです。
けれどそれは壁に向かって話しているのとは明確に違うと思います。
たぶん、聞くことは「この」痛みに対して赤の他人の素人ができる最善の協力です。


本日はここまでです。
書き足りないのですが、痛みや時間との兼ね合いがあるので、また後日付け足そうと思います。

読んでくださる方がいらっしゃいましたらありがとうございますm(_ _)m

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