3/8 意味づけしていない痛み
今回は痛みについて私が考えていることを書きたいと思います。
それは以前の記事で書いたように、痛みはまず痛みとしてとらえるべきだということです。
「痛いけど」ではなく。
「痛いから」でもなく。
痛みに何の意味を持たせることなく、ただ痛みそのものとしてとらえる。
理由をつけたり、役に立てたりするのはその後でいい。そう思います。
痛みはさまざまに解釈できます。
例えば
・今の痛みは将来役に立つ
・痛みを知っている人は、他の人にも優しくできる
・痛みは体にとって必要なサインである
などです。
(私は幸い病院などで、三番目に挙げた痛みの必要性について説かれたことはありません。
たぶん医師や治療関係の方は、痛みの役割を訴えることが患者にとって有用でないことを知っているからだと思います)
どんな理由付けをしても、今ある痛みは確実にある。
やまない雨はないと言います。
実際そういった言葉で勇気づけられることもあるかもしれません。
けれど未来がどうであれ、今の痛みを認めることもまた必要だと思います。
接続詞をつけない、解釈しない痛みそのものと向き合うこと。それ自体に意味はなくとも(意味づけはしなくとも)大事なことだと感じています。
知識がないので具体的な言及は避けますが、世に言うハラスメントや差別の問題にも通ずることだと私は思っています。
そういった問題への機械的な対応は、そもそも痛みがあることを認めていない、あるいは始めから痛みをなかったことにしてしまうから不適切であるように思えます。
なかったことにされるのはつらいですし、それでなくなるわけもありません。
痛みがないことのメリットを考える、痛みがあることの理不尽を想像するより前に、まずは目の前の、あるいは自身の痛みを「痛みそのもの」として認めること。
それが始まりだと思います。
痛みがあることを認めようとしないならば、どんな解決策を案じてもわかり合えるわけがないし、会話が噛み合うはずもない。
そして痛みを認めようと思わない議論、自分にとって深刻でない議論にはたぶん外から口出しをしない方がいい。
でないと話がこじれるというか、解釈や意味づけをすることしかできなくなる。
そう思います。
ここからは塾講師としての意見です。
今日までで大学受験の結果が出揃った方も多いと思います。
良い結果が出た方は手放しで喜んでもらえればと思いますし、それは私が何か言うことではないと思います。
ただそうでなかった方に伝えたいのは、やはりその事実を事実自体として受け止めて、言葉で流さないこともまた大切だということです。
これまでの過程、これからの不安、様々な気持ちがあると思いますが、まずは今感じている悔しさや悲しみをそのまま自分の内側に認めることが大切だと思います。
たぶん多くの場合何を言われてもあまり傷は癒えないし、それが痛みを意味づけしようとする言葉ならなおさらだと思います。
自分で傷を認め、要は悲しいなら(可能であれば)泣いて、その上でこれからできることやしたいことを考える。
涙が出なくても、痛みと呼べそうな気持ちがあるならそれを直視する。その上でどうするかを自分に問う。
もちろんどちらの場合でも、話せる相手がいるなら話す、それもなるべく話を聞くよりも聞いてもらう方が良いと思います(理由には以前の記事で触れています)。
なお実利の面で言っても、たぶんそれが一番健全で立ち直りも早いと思います。
今回は以上です。
ただ、「痛みを感じる道でありながらもその道を進み、極める」という生き方もあるのだと、以前いただいたコメントで知りました。
私も全面的に痛みの利点や役割を否定するわけではなく、もちろん私が語れるのは意見でありマニュアルではありません。
次回はその辺りに触れられればと思います。
読んでくださる方がいらっしゃいましたら、ありがとうございますm(_ _)m
#闘病記 #メンタルヘルス #痛み #合格発表
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