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2/28 「中二病」という言葉の危うさ

「レッテルを貼る」という言い回しがあります。
ある性格とかキャラクターとか呼ばれるものを貼り付けられると、周りが期待するであろう行動以外は取りにくくなる。
逆に型通りの行動をとると笑われてしまいそうな状況もある。
「中二病」という呼び名には後者の嘲りが含まれているように感じられます。


個人的にも型通りの中二病を患っていましたが、それは私なりに必要だったからです。
溜まった鬱憤を晴らす手段を知らなかったから、演技や設定に逃げ道を求めた。
幸い、当時「中二病」という言葉は(恐らく)なかったため、嘲笑されるよりは責められることの方が多かった印象です。
元より「中二病」と呼ばれるものは、自分が人とは違う特別なものでありたいという意識、あるいは集団から浮いている疎外感が招くものだと認識しています。
それなのにレッテルを貼られたらそれは特別でも何でもなくなってしまう。
特別であることを求めた結果、最も特別でなくなってしまう。そう考えるとレッテル貼りは中二病の対義語にさえ思えてきます。


演技だとわかっていてもやらなければいけない状況はある。自覚がないふりをすることが必要な状況は間違いなくある。
私にはありました。
そこで先回りされてしまうと、逃げ道が一つ失われます。選択肢とか自由度が減ってしまう。
以前と比べると、今文字通りの中二病は成立しにくいのでは、と考えます。
攻撃されるのは嫌ですが、嘲笑されるのはもっとつらいように思えるからです。


それも学校内だけで完結すればまだしも、ネットやら漫画やらで頻繁に取り上げられている。
そうなると自分に対して以上に、世間に対して演技をして、それを自覚しなければいけなくなる。それはかなりの負担だと思います。


「人間が機械になったような強張りを見せた時、笑いは起こる」といった話を聞きました。典型的であることは、嘲笑したくも自嘲したくもなることかもしれません。
それでも言葉の指し示すものは一通りでなく、個別の経緯や感情まで含まれているわけがない。
いわば隙間だらけの壁、あるいは網なので、個々の「この中二病」は誰とも違っていて当たり前です。
それでも典型に似たものを感じた時、既に自分の内側に嘲りを受ける心当たりができてしまう。
非常にやりづらいのではないかと思います。


「中二病」に限らず、典型に名前がついていくのは仕方がないことです。また名前がつくこと、レッテルを貼られることが便利だったり強みになったりすることも多いと思います。
危ういからといって止められるわけでもない。
ただ目に見えた便利さと同様に、しんどさもあると思います。


たぶん大事なのは、苦しみを自分に対して認めることです。これは若い人に限った話ではないと思います。
(広い意味での)痛みがないかのように振る舞わなければいけない状況は多いし、逃げ道は名指しに限らず物理的にも塞がれていく。
それでも自分が痛み、苦しみを背負っていることを直視する。利益があろうがなかろうが、あるものはどうしようもなくある、そう認めることが大事だと思います。
自分にまで嘘を突き通せるものではないとも思います。


元より「中二病」という道を選ばざるを得ない原因の多くは「拒絶」の感情だと考えています。限定されること、あるいは所属することへの拒絶です。
だとしたらレッテル貼りがその見張り番であるのに対して、受け入れて認めることはその解放者になるのではないか。少なくとも当時の自分を振り返るとそう思えます。
また闘病中の今でも、「痛みがある」と痛み自体を認めることは治療の第一歩だと感じています。



本日は以上です。
読んでくださる方がいらっしゃいましたら、ありがとうございます🙇

#闘病記 #中二病 #痛み

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