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出かける前に2階の部屋の窓を閉める。階下には母がいるけれど、母はもう2階には上がらないから、わたしが閉めて出かける。
むかしはそうではなかった。窓を開けたまま出かけても誰かが家にいて、必要な時には閉めてくれる。

思えばずっと、自分が開けた窓は誰かが閉めてくれるような暮らしをしてきた。面倒そうな手続きも、勇気のいる決断も、少し開けた窓と同じように、いつか誰かが最後を引き受けてくれる。この年齢になっても、そんな気分が抜けずにいる。面倒や勇気や最後の見届けを求められるばかりのいま、いちいち戸惑っている自分。実に子どものまま生きてきたのだと思う。

白夜のナースチェンカみたいに閉じている。

父がいってしまって、それまで目を閉ざしてきたいろいろに、向き合わざるを得なくなった。父を失うということが、こんなに多くのことを引き連れてくるとは思っていなかった。
まず、自分がいかに閉じて生きてきたかを感じた。ここ数年、夕食を外で食べたことがほとんどない。毎日、夕食時から翌朝出勤するまではずっと家にいて家事とお世話に追われていた。土日は昼食の介助まで。平日の日中、父と過ごしてくれている母に気兼ねしてもいた。母も無理をしているのがよくわかっていたから、他に選択肢はなかった。仕事関係もそれ以外も、夜の食事なり何なりの誘いに応じたことはない。夜にオンライン会議があると父のお世話が遅れ、母の食事も寝むのも遅くなる。それが心の負担だった。父を預けて、母と観劇などして夕食時に出かけたことはある。観劇か。ますますナースチェンカじみている。しかしそれも年に数回あるかないか。これは異常なのだろうか。みなさんはどうですか。

ヘルパーさんは夜は来てくれない。それでも、工夫をすれば他の道もあったかも知れない。数週間分のすべての食事を作り冷凍して、家族を残し旅をした人を知っている。その工夫をする熱量がわたしにはなかった。

いま、
父といれかわるようにして母が老いを見せ、見守りが必要になって、わたしはさして変わらない生活をしている。スカートをピンで繋がれている訳でもないのに、閉じたままだ。
しばらくの間は、生活が変わらないことに焦りや怒りすら覚えた。なぜ、失ったのに得られないのかと。次に悲しみがやってきた。これは自分の時間の使い方とは無関係なのだが、何をしても何をみても、一人のひとの不在が胸を塞ぐ。悲しい。

そしていまは、
この穏やかさを選んでいる自分がいる。相続ということは思いの外大変で、やることは尽きない。それでも時には早く帰って母と過ごし、きょうは早いね、と言いあって床に就く日の安らかさ。できないことばかりなのは以前と変わらない。いやむしろ絵を描く時間は削られるばかりだが、心の水平線は凪いでいる。悲しみは消えないけれど、怒りの夏は過ぎたのだ。そう、かつてのわたしは怒ってばかりいた。何にでも見返りを求めるのはわたしのわるい癖だ。失ったからではなく、生きていくことは、手離すことと得ることの繰り返しなのかも知れない。

夜のおつきあいなどというのは小さなことで、仕事そのものも、介護を言い訳に削りに削ってきた。お金と学びを、外で得る機会を減らしてきた。これでよかったのかと自問は尽きない。ただそのおかげで、父のそばに居る時間を得られた。老いという未知に向かい合い、介護というものを学んだ。介護の経験を、かけがえのない財産だと感じる。育児ということをせずにきたから、その代わりに介護をしているのだと思った時もある。そういうものかどうかはわからない。ただわたしはこの道を歩いてきた。ほとんど流されるようにしてたどった道だけれど、いまはそれなりに誇らしい道であると思う。大切なのは財産を思い出に変えないことだ。活かしていけたらよい。

今朝、
何やら大袈裟なくらいにあいさつをして、玄関で母に見送られて家を出た。わたしは一泊の旅行に出かけるのだ。すべての食事は作らなかったが、朝食の仕度のついでにささやかな土鍋料理を仕込んできた。母が晩に食べてくれるといい。いま、という時が有限で、儚いものであることをわたしも母もよくわかっている。あいさつも大袈裟なくらいでちょうどいい。すべては移ろっていってしまうのだ。
2階の窓は閉めた。カーテンも閉じてきた。秋にしては濃い影を踏みながら、歩きだす。



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さや
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