私がスタジオの鏡を隠している理由
私がスタジオの鏡を隠している理由――それは、「ヨガには鏡は必要ない」と思っているからである。
なぜ鏡は不要と考えるか、今回の記事で深堀りしながらお伝えしていく。
皆さんも、私も、鏡を見てしまうから
鏡は「見てしまうもの」だと思う。
もともと、人間は自分で自分のことを直接見ることはできない。
だから、私たちは鏡や自分を反射して映すことのできる物体(ガラス、水面等)を介して自分の顔や身体がどう映るのかということに非常に強い関心や興味があり、好奇心がわくがゆえ「見たい!」という気持ちをいつも胸に抱いている。
程度には差があるだろうけれど、きっとそれはどんな人でもそうなるだろう。私も見たくなる。鏡を見ないようにしようと思っていても、目などの感覚器や心がそれを許さない。どう頑張っても目に鏡が飛び込んできたら見てしまうというのが人間というものだと思っている。
でも、ヨガの目標やゴールって何だっけ?と考えたときにヨガに鏡が必要かと問われれば、不要だと言い切れる。
ヨガはとても繊細な行いだから
●閉眼
私の調べによると、ハタヨガ(肉体や呼吸のコントロールに重きを置くヨガ)はもともと「閉眼(へいがん)」で行われてきたようだ。
これはある先生方から口伝で教わったので閉眼でアーサナをしていたという出典(ソース)は現在探し中。ではあるのだが、自分が練習しているときにアーサナ中に結果として目を閉じていることは多々ある。気付いたら最終的に目を閉じているのだ。思わず目を閉じる…?否、閉じちゃっているのだ。
特にクラシックな古典のハタヨガはアーサナをキープする時間も長いので(2~3分)、アーサナという型に入ることができたらあとすることといえば感覚や呼吸を味わうことぐらいだ。だから、今よりもきっとキープする時間が長かったであろう昔のヨガの先輩方もアーサナ中は目を閉じていたに違いないと私は推測している。
●閉眼する理由
では、なぜ目を閉じるのか。その理由は「自分の【内側】に意識を向けて感じるため」である。
目を閉じると視覚が遮断されるので、何かを見て判断しアクションをするということがなくなる。自分の感覚だけが頼りとなり、一気に引き込まれるように自分の身体に集中する。視覚以外の感覚がここぞとばかりに活動し始め、さすがに味覚はないが、嗅覚(鼻)、聴覚(耳)、触覚(ヒフ)の感覚が研ぎ澄まされて、より繊細に丁寧にアーサナを味わおうとする。閉眼でアーサナをすると、伸びしろや頑張りポイント見つけることもよくあるし、呼吸のペースがゆっくりになり、なにより心が落ち着く。まさに、心の作用が止滅される(『ヨーガ・スートラ』第1章第2節)、そんな感覚が私にはある。
アーサナに限らず、私たち人間が目を閉じるときはどんなときか考えるのも面白い。お花のいい香りを嗅ぐとき、心地の良い音楽を聴くとき、涙を流すような感動する映画を観た後に余韻に浸りたいとき、愛する人とキスをするとき…そんなときに私たちは気付けば自然と目を閉じている。それと同様である。
●プラーナ
また、ヨガは、「プラーナと呼ばれる生命エネルギーを感じるため」に行っているというのもある。
プラーナは、ヨガ独特の身体観のひとつである。目で見ることもできなければ手で触ることもできないものだけれど、古代のヨガの先輩方は私たちの身体には全身に「気(プラーナ)」が流れていると考えていた。
そして、この気によって私たちは生きている、生かされているとも考えていた。プラーナは私たちの呼吸に乗り、身体に約72000本あると言われている「気の通り道(ナディ)」を通って運ばれ全身を巡る。プラーナが全身に満たされることはつまり生命エネルギー(活力)が満たされているということだ。しかし、そのナディの通りがいつもいいかというとそうではないことが多い。身体は硬くなるし、老廃物で汚れるし、呼吸もいつもスムーズかというとそうではない。だからヨガではアーサナ(姿勢法)やクリヤ(浄化法)、プラーナヤーマ(調気・呼吸法)を行い、プラーナの乗り物である呼吸を大切に丁寧に扱う。ヨガをする人の一生は呼吸の数で決まるとも言われているからだ。
プラーナを信じるか信じないかは人それぞれだと思うけれど、私はプラーナの存在を信じている。それ故に、自分の感覚を信じて自分に集中し、そしてプラーナという名の気を感じるために鏡が必要かと問われれば、私は不要と答える。
●サマーディ(三味)
ヨガのゴールから見ても、やっぱり不要だと思える。
ヨガの最終ゴールは、「サマーディ(三昧)」などという名前がついていたりもするが、それは何かということを経典を読んで得た自分の知識や理解も含めて端的に表現すれば、「自分だけを意識の対象とした集中・瞑想状態」である。ヨガはこの状態に至るためにあらゆる手法を用いてそのゴールを目指し、練習をしていくというのがヨガの本質である――と、偉そうに語っているが、サマーディはインドのヒマラヤの奥地で修行をしているヨガの聖者たちが目指しているものであり、そう簡単には到達はできない。世俗的なヨガや日常生活を送っている者は皆、今世ではきっとサマーディには到達はできないだろう。ヨガのゴールはサマーディなんだねぐらいに留めて心の片隅に置いておき、来世あたりで目指せたらいいなぐらいに思っておこう。
●現実的には・・・普通に、あぶない
ここまで少々マニアックなヨガの考えをもとにお伝えしてきたが、鏡は不要ということをヨガの技法のうちの一つである「アーサナ(ポーズ、姿勢法などともいう)」の例を用いてもう少しわかりやすくお伝えしていく。
ヨガの修習が進んでいくとその分アーサナの難易度も上がっていくのだが、それは集中の連続であり、鏡を見ること……つまりは自分に意識が向いておらず集中していない状態では決してとることのできないアーサナばかりになっていく。
ここで、シールシャーサナ(ヘッドスタンド)やアドムカヴリクシャーサナ(ハンドスタンド)を例に挙げよう。
例えば、自分の身体は一体どうなっているのだろうかと鏡を見ながらこれらのアーサナに取り組むと何が起こるかというと、それはもう、ものの見事に失敗をする。「バッターン!」という音を立てるほどに背中側から床に落ちて倒れたり、下手をするとどこかを痛めたり怪我をしたり、最悪の場合は病院送りやもう二度とヨガをすることができない身体になってしまう可能性が非常に高い。
皆さんも思い返してみてほしい。鏡を見ているときの自分の意識はどこにあるか――そう、「鏡に映った自分(という肉体、外見)」もしくは「鏡に映った何か(大抵は他人の体や存在)」に意識があり、それはただの物体であり、決して「自分そのもの」には意識の矢印は向いていないのである。(この表現、伝わるかな…)
意識の欠如は集中力の欠如とイコールだ。意識が抜け、集中力を欠いている状態でアーサナの練習をするべきではない。そんな状態でやらない方がマシといっても過言ではない。
なぜならば、人は意識や集中していないときにこそ怪我をするからである。これはかつて私が学生時代に傾倒していたバレーボールやヨガの練習時に誰かがそうなっているのを見たり、もしくは自身の身をもって体験済みことだから――断言できる。
集中していれば、万が一に怪我をしそうになっても回避できる。身体が本能的に危険を察知して回避してくれるといってもいいかもしれない。体中にあるセンサーが感度良く機敏に反応してくれる。
安全にヨガを行うためには、鏡はやっぱり不要なのである。
最後に(磯崎のここでしか言えない話)
ここから先は
¥ 300
Amazonギフトカード5,000円分が当たる
当noteをお読みいただきありがとうございます。noteの「サポート」とは、クリエイター(私)の活動を金銭的に応援(サポート)できる機能です。金額は100円~。サポートしていただいた暁には、喜びのあまり記事の更新頻度が上がり、内容がより濃厚なものとなることでしょう。Namaste