今日の2300字小説「老人といま」
川沿いのホテルに着いたのは昨日、日が暮れてからだった。出張で来ただけだから何もやることがなく、食事だけ済ませてすぐに寝てしまった。そしたら、朝早くに目覚めてしまった。せっかく通勤時間がないんだからゆっくり寝てしまえばいいものを、知らぬ土地見たさもあって起き出した。
珍しく長期滞在になる。周囲を知っておくのも悪くないだろう。
ホテルの窓から見えていた大きな川。川べりに散歩コースのような芝生の敷かれた区画が見えたから、そこに赴いてみることにした。
朝が川沿いの街を照らし始めた。
私は川を眺めながら、散歩道を歩いた。朝日のあたたかさと同時に受けるひんやりとした風が気持ちいい。少し歩いたところでベンチが見えた。長いベンチの片端に男の人が座っている。
端に杖を置いて、帽子を被った白髪の老人…いや、紳士だ。この出で立ちは紛れもなく紳士だ。私はちょっと休憩するつもりで紳士の隣に腰を下ろした。
「お隣、失礼します」
紳士は私を一瞥して、会釈を返した。
「こちらにはお仕事で?」
出し抜けに話しかけられて少し驚いた。
「ええ、出張で。なんでわかったんですか?」
「なんででしょうね。ここで毎朝川の流れを見ていますから、この土地に流れてくる人のことは、雰囲気でわかってしまうのでしょうね」
「はあ。すごいですね」
ちょっと面白い人だ。もうちょっと話を聞いてみたいと思い始めた。
「いい川でしょう。どんな音が聞こえますか?」
「あ、思ってたよりいろんな音が聞こえました。えっと、ジャージャーとかザパザパとか、ですかね」
「いいですね。でも川とは、水が流れるだけの場所ではありません」
「…それってどういう」
「もっと広く見て、広く音を聴いてください。川を形取るのに、鳥の存在は欠かせません」
私はベンチから立ち上がり、目と耳でぐるりを見た。いざ集中してみると川はいろいろな音が複雑に折り重なっていた。水流が岩を穿つ音、小さな滝がそこかしこで落ちる音、泡立つ音、飛び散る音。風が吹き抜ける音。水鳥が鳴き、羽を広げ、羽ばたく音。河川敷を人が走る靴音。息づかい、衣擦れ。遠くで列車が線路を軋ませている。
「ホントだ。すごい」
「川はいつもここにありますが、一度も同じ音を立てることはありません」
「そうなんですね。不思議な感覚です」
「まあ、それは生きることと同じですがね。あなたお時間は?」
「え、あ、いけないそろそろ」
最後の言葉に反応することもできず、時間が来てしまっていた。もう少し話したかったのに。
「しばらく近くのホテルにいるんですが、またお会いできますか?」
「ええ、きっとまた会いましょう。私は毎朝ここにいます」
いつ来てもここにいる。なんてこの川みたいだ。
「ですが次に会ったとき、あなたは私のことなど見向きもしないでしょう」
「そんなこと」
あるはずがない。こんなに楽しい人、そうお目にかかれない。
「私は毎朝ここにいますが、世界は毎朝違っています。案外子どもの方がそれをよく理解しています。いま楽しいことが明日も同じように再現できるわけではないことを直感としてわかっているのでしょう。だからいまオモチャを取り上げられることを嫌がるのです。いまと今度は違う世界のことだと、わかっているから」
妙に説得力がある。でもそれは子どもの認知能力の未熟さが原因であるはずだ。
「それと同じことです。あなたが私に興味を持つような朝は、きっともう二度と訪れないでしょう」
この紳士は掴みどころがない。こんな人を無視することなんてできない。
「いいえ、きっとまた会いに来ます。あなたこそ、またここに来てくださいよ」
「ええ、必ず。私は毎朝ここにいますよ」
そう約束して私はベンチから腰を上げた。ホテルに戻って、急ぎ仕事の支度をしている間もワクワクが止まらなかった。すでに紳士の術中にハマっている気がする。
しかし翌朝、私は寝坊をした。いや、仕事のアポイントには間に合ったのだが、朝の散歩をするような余裕がなかった。紳士はこれも予見していたというのか…。
滞在日程は駆け足で過ぎていく。忙しさにかまけて朝の散歩など頭から離れてしまった。
最後の朝になってしまった。私は前日の打ち上げも早々に切り上げて、万全の状態で朝を迎えた。そしてあの川べりの散歩道へと繰り出した。朝からランニングをする人たちがすれ違う。ゆっくり歩く人もいる。今日も川はいろんな音で溢れていた。
あのベンチに、紳士の姿はなかった。
「ウソでしょ。いるって言ったのに」
仕方なくひとりベンチに座り、だらっとしてみる。目を閉じると、また鳥の鳴き声が聴こえた。
何分経っただろうか、ふと目を開けてみる。相変わらず川とランナーが流れていく。
ん?え?あっ…
呼びかけようにも名前がわからない、でもあれは紳士だ。仕方なく大きく手を振ってみた。
向こうは気づいてくれたようだ。走っていた流れで速度を緩めることなくこちらに向かってくる。スポーツウェアに身を包んでいるが、短パンから見える細い足はしっかりと筋肉がついていた。
「いやぁ、先ほどすれ違ったのに、見事に見向きもしなかったですね」
「え?すれ違ってたんですか?だって気づかないですよ。そんな格好」
「言ったでしょう。世界は毎朝違っているのですよ」
してやられた。深い意味があるような言い方してたのに。そんな単純な。
「ここにいると思ってたから」
「それはただの先入観です。そこに座っているとは言っていません。川は流れ、人生もまた流れているのです」
「あの杖は?この前、杖を持ってましたよね?」
「ああ、あのスタイルには杖が似合うでしょう?ちょっと紳士っぽく見えませんでしたか?」
やはり私は初めから紳士の術中にハマっていたようだ。