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東京帝国大学入学 そして 学徒出陣

1942年(昭和17年)4月。礒永秀雄は東京帝国大学に入学します。下宿先は大学正門のすぐ向かい側にある本郷区森川町。(当時の東京は東京市。大学のある本郷は本郷区と呼ばれていました)

前年の12月に始まった太平洋戦争は、その後勝利のニュースで賑わっていましたが、入学2ヶ月後のミッドウェー海戦の大敗を境に戦況が大きく劣勢へと変わっていきます。

本郷 森川町

大学では退役将校による教練の授業。刺突の訓練などが運動場で行われていました。中学時代から10年近くやらされてきた軍事訓練が大学でも行われていることに失望し、
「この大銀杏や時計台のある大学に入ったのは人殺しの練習をするためではない。もし仮に学問だけ修めても卒業させないような事態が起こったとしても、そのための卒業延期や放校処分。たとえ卒業証書が与えられないことになったとしても、甘んじて受ける」と心に誓い、戦争のために行われる教練の授業は全て拒否しました。

学生証

大学の専攻は文学部美学科でした。美学科で学んだのは「死の美学」ではなくドイツの詩人シラー『美しい魂』のような「生の美学」です。

『美しい魂』の中に次のような譬話たとえばなしがあります。

── 雪の中に行き倒れていた男がいました。彼は歩く力も起き上がる力もなく雪に埋もれています。通りかかった1人の旅人は、男の倒れているのを発見しましたが、見て見ぬふりをして通り過ぎました。次に通りかかった2人目の男は、倒れた男の傍に寄りましたが、隣の町まで彼を運んだら自分の命も危うくなると思い「しばらくの辛抱だ。隣町に着いたらきっと救助の人々をよこすから」と言い残して立ち去りました。ところが、次に通りかかった3人目の男は、倒れた男の傍によるといきなり彼を担ぎ上げ、彼を背負ったまま雪の中を隣町まで歩いて行きました。そして彼は病院に男を運んで治療を頼んでから名前も告げずに立ち去って行きました。──

彼を支えている美しい魂は、無条件に人の生命を救っていきます...。この3人目の男の愛と奉仕の精神に満ちた果敢な行動はその後の秀雄の心を捉えて離しませんでした。そしてこの大きな戦争を経験する中で、「この世は自分を生かし、人を生かすためにあるのではないか」── 裏返せば「この世は自分を殺し、人を殺すためにあるのではない」と思う様になっていくのでした。

ヨーハン・クリストフ・フリードリヒ・フォン・シラー

大学で「生の美学」を学ぶうちに、人を生かすための演劇や映画などに興味を持ち始め、卒業後の就職先として東宝映画株式会社の助監督に内定します。映画会社を就職先に選んだのは「自分を生かし、人を生かす」ための仕事であること。それに、東宝には中学時代から好きだった女優、高峯秀子さんがいたことも大きな理由だったに違いありません。

しかし戦局はますます悪化し、兵力が極端に不足していきます。1943年9月。ついに学徒出陣。日本の将来を担う「知的エリート」の文科系大学生(当時の大学・高専への進学率はわずか3%)まで戦地に出陣することになりました。1943年10月21日、明治神宮外苑競技場の学徒学生壮行会が行われました、しかしその頃には既に日本の敗戦が見えはじめていました。「身を鴻毛の軽さに置いて」いさぎよく戦って死ぬということは「悠久の大義に生きる」ことで、決して「死」を意味することではないと言い聞かされ、「死んで帰れ」が合言葉になっていた時代です。戦地に出陣するということはすなわち死を意味していました。

明治神宮外苑競技場の学徒学生壮行会

「ああ...立ったまんまで死んで行くんだ.....。」灰色に覆われた青春。閉ざされた未来の前に立ち尽くし、秀雄は人生で初めて詩を書きました。

孤 絶

雪の夜を わたしの歌はどこへやら ──

雪の夜を わたしの歌があったとて ──

雪の夜を・・・・・
雪の夜を・・・・・

榾火ほたびあかく 立ちて崩るる・・・・・


明治神宮の壮行会が終わり、文学部の学生達が故郷で行われる臨時徴兵検査へと向かう直前、東京帝国大学で壮行会が催されました。閉ざされた未来を感じている学生に対し今井登志喜文学部長は物静かに次のような言葉を贈りました。

「諸君は学問のためにこの校門をくぐり、今や学問の自由を奪われて校門をあとにする。この悲しい歴史の流れを喰い止めることの出来なかったことを私たちは諸君に心から詫びなければならない。しかし諸君、諸君の出征したあとには私たち老教授が残って学問の灯だけはしっかりと守り続けている。若し戦争が長びいて私たちが倒れても私たちの後には助教授がおり、助教授のあとには講師がおり助手が残っている。どんなにこの戦争が熾烈なものとなり本土決戦がたとい行われようとも、私たちは誓って学問の灯は守りつづけている。だから諸君は、どうか後顧の憂なく出征してほしい。しかし忘れないでくれ給え。諸君は学徒半ばにして校門を後にするのだ。だから将来。きっと再びこの校門をくぐって帰って来てほしい。必ず生きて帰ってきてくれ給え。」

東京帝国大学 安田講堂

学生たちは文学部長の言葉に打たれ、万雷の拍手を送りました。当時の風潮であった「死んで帰れ」ではなく、「生きて帰れ」という言葉を命懸けでかけてくれたからです。世俗に妥協しない文学部長の真実の言葉は出陣する学徒へ大きな華向けとなり、秀雄は「自分を生かし、人を生かすため」に生きて帰ってくることを誓いながら、故郷で行われる臨時徴兵検査へと向かって行くのでした...。




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