南の島から 生きて日本へ帰る
1945年8月9日。長崎に原爆が投下されました。長崎は礒永秀雄の母ルイの故郷です。
1945年8月14日。山口県光市の光海軍工廠が米軍の空爆で全て破壊されました。光市は父高輔の故郷です。
1945年8月15日。昭和天皇はラジオを通じて、日本の敗戦を伝えました。8月15日は日本人にとっての敗戦記念日となりましたが、朝鮮人にとっては日本からの独立記念日となり、多くの朝鮮人が「朝鮮独立万歳」と言って歓喜熱狂しました。
仁川に住む礒永秀雄の両親は、日本では多くの都市が破壊され、食糧も困窮していると聞いていた為、終戦後も仁川に残留することを望んでいました。しかし9月14日。トルーマン大統領がサンフランシスコ放送で「朝鮮滞在日人は全て放逐する」 と言及したことで、残留を希望した人々は皆、引揚げを決意。10月13日に単独帰還軍人の引揚げが開始。11月11日には民間の日本人の引揚げも開始されました。
終戦後の仁川は日本人の金品が狙われたり寺院が放火されるなど治安が悪化していました。しかし礒永の両親が住む家は朝鮮人部落の中にあり、朝鮮人のお手伝いさんがいたこともあって、隣に住む親日家の朝鮮人の府会議員をはじめ沢山の朝鮮人が引揚げの力になってくれました。食べ物や金銭を親切に与えてくれた人や、釜山港まで見送りした人までいました。釜山から出発した船は博多港に到着。その後両親は、関門海峡を渡って高輔の生まれた光市室積に向かい、瀬戸内の海辺の小さな借家で新しい暮らしを始めます。
一方戦時下のハルマヘラ島では1945年1月頃、3人の預言者によって、この戦争が1945年8月に終わると予言されていたと言います。
サイパン島や硫黄島の玉砕を的中させた師団司令部の下士官の男が、この戦争は8月14日前後に終わると予言しました。マミヤ山という火山のふもとで暮らす現地の占い師のお婆さんも、戦争は8月14〜15日に終わると予言し、飛行部隊の兵隊の占い師も、この戦争は8月15日に終わると予言しま した。3人揃ってこの戦争が8月の中頃に終わるというので、ハルマヘラ島の日本兵約4万人がその日を頼みにしていたところ、3人の予言がズバリ的 中。戦争は本当に8月15日に終わりました。
戦争で沢山の大型船が海に沈み、引揚げ船が不足していた関係で、秀雄がハルマヘラ島で引揚げ船に乗り込むのは終戦から9ヶ月以上過ぎた1946年5月24日のことでした。
引揚げ船は和歌山県田辺港を目指します。
ハルマヘラを出発して10日が過ぎた頃、引揚げ船は関門海峡を通って瀬戸内海に入りました。
目の前に広がる緑豊かな山河。数多くの美しい島々。祖国日本は平和を取り戻していました。まるで天国のような風景です。何事もなかったかのように穏やかにきらめく紺碧の海が切ないほど心に染みました。
礒永秀雄はこの時、詩人になる決意をしたと言います。
後に礒永秀雄は詩人を志した理由について
「引揚げ船が瀬戸内海に入り、目の前に広がる緑美しい山々や島々。抜けるような青空や紺碧の海を目にした時、この美しい日本のために詩を書こうと思った。」
「死んだ戦友に語りかけるかのように己の生き様を問い続け、生存の証を詩に刻み、まやかしには真っ向から対決せずにはいられなかった。」
「南の海に散った幾多の戦友のことを思い、生き残って帰ったからには永遠に青春につながる仕事をしようと心にきめて詩人を志した。」
と繰り返し語っています。
戦争へと向けて進んでいた頃、日本ではニヒリズムが支配的で、若い人たちは自由な思想を持つことができませんでした。戦争が始まると情報統制された政府からまやかしの情報が飛び交い、戦地に送られた若者たちの命は消耗品の様に扱われ、数えきれない命が失われました。太平洋戦争で玉砕が相次いだ南の島々から「生きて帰る」ことができたのは奇跡でした。しかし自分が生きて残って帰ったことを素直に喜ぶことはできませんでした。
戦争で失われた多くの戦友のことを思うと、死んだ戦友に代わって、再び戦争の道へと進まない様に、あらゆるまやかしに真っ向から対決し、否定する立場にいなければいけないと感じました。
それが礒永が詩人として出発する時の強い姿勢であり、生涯を通して一度も揺らぐことはありませんでした。
1946年6月4日。和歌山県田辺港に到着。6月5日復員。秀雄は復員列車に乗って光市室積に向かい、朝鮮から引き揚げていた両親と2年半ぶりに再会しました。両親が引揚げの時に持ち帰ったのは、わずかな身の廻りの品と金一千円。そして屈辱。仁川で過ごした家や土地などの財産はすべて失い、裸一貫のスタートです。
礒永の学友たちは、礒永がいつまで経っても日本に戻って来ないのできっと戦死したんだと思い込み、唇を噛み締めながら「戦争で礒永が死んだことを無駄にするな」と誓い合ったといいます。
しかし礒永が生きて日本に戻ったことを知った学友たちは大変喜び「俺たちはもう騙されない。この投げ与えられた自由はたくさんだ。長い間失っていた自由を俺たちの手で勝ち取るんだ!」と励ましてくれました。
戦後。みんなが困窮していた時代でした。礒永家の生活もひどく困窮し、東京帝国大学に戻って学問を続けるという選択肢はもはやありませんでした。
1946年1月4日、GHQは日本政府に対し公職追放の覚書を発令。それを受けて日本を侵略戦争に追いやった軍国主義者・国家主義者を、公職から追放する動きが始まり、戦前から職を引き継いでいた市町村長、県会議員、市会議員、町内会長、部落会長などは辞職を余儀なくされました。
光市役所でも1946年の春頃から人の入れ替えが始まり、古い職員が次々と辞職していきます。秋には光市長も交替しました。市役所にはそれに代わる新しい人材が求められていました。
復員した礒永は復興に必要な様々な能力に長けた優れた人材です。礒永は復員後すぐに光市役所に就職。学校教育課に配属されることになりました。
戦後の光市では市民館および図書館の新設が計画されていて、1946年4月に中卒で市役所に就職した新入職員が図書館作りを志望し、新設の作業をはじめようとしていました。しかし図書館を作るといっても何から始めればいいのか全くわからず、教育課の礒永のところに相談しに行きました。
すると礒永は東京大学の図書館を思い出しながら、総記、哲学、歴史、社会 科学などの分類表を懸命に作ってくれたといいます。
今の図書館は10進分類法ですが、礒永は東京大学の図書館の分類と同じ16〜17部門位に分けて分類表を作り、それから本を分類し目録をこしらえました。分類表や目録は全て礒永の手書きです。
礒永は字を書くのが物凄く上手く、ガリ版を切るのも職場で最も優れていたといいます。図書館作りの作業は1年ほど続き、1947年7月15日。 光市立中央図書館が完成。無事開館することが出来ました。
この時中卒で図書館を作りをした田辺朝一さんは5年後、礒永が主催する詩誌「駱駝」に参加。終生の付き合いとなっていくのでした...。