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ポストモダンと二次創作

二次創作とはなにか

 二次創作とは何だろうか。誰が何を目的として描かれ、何が求められるのだろうか。

 この疑問は二次創作愛好家として非常に気になっていた。しかし、あまり議論されていないように感じる。理由としては疑問に対して誰も興味が無い事と、非常にセンシティブな問題だからである。
 個人的感覚としては推し、二次創作、二次元作品の解釈の界隈は非常に考察がしづらく、閉鎖的であると思う。それであっても何も問題ないが、研究などはあまり進まないだろう。その必要もオタクにとっては必要ないと思われる。私のオタクとしての人格もそう言っている。

 しかし、議論などが全くないわけではない。有名な二次創作論は東浩紀氏の「動物化するポストモダン」だろう。この本を読み込み、二次創作はどのように作られ、何を目的とするのかということを整理しながら考えたいと思う。

 注意事項としては、この本は2001年のものであることだ。この時代にはネットこそあったが、そこまで普及はしていないと思われる。今では二次創作を求めるオタクたちは個人サイトではなく、XやPixivを見ると思う。ただし、前よりは勢いはないものの、コミケなど同人イベントなどは盛り上がっているようだ。
 その他にも20年前と変わったことは多い。しかし、オタクの本質は変わっていないと考えたため取り上げた。
 また、この記事は本のまとめというよりは、本を読み、自分なりに理解した上で自分の意見を記述している。東氏の意見のみを反映しているわけではないことを断っておきたい。東氏の意見にすべて同意しているとも限らない。

 それも踏まえてだが、二次創作は動物的であるという主張に抵抗がある方は傷つけてしまうかもしれない。その場合は読まないでいただけると私としても嬉しい。


動物化するポストモダン

 二次創作の話をする前にこの本について少し話しておきたい。

 この本のタイトルの「動物化するポストモダン」とはどういう事だろうか。まず、動物化とポストモダンという言葉から見ていかなければいけない。

 ここでのポストモダンとは「70年代以降の文化的世界」とする。

 動物化とはこの本では各人で「欠乏ー満足」の回路を閉じてしまうことをいう。何を言っているかわからないと思うので「なるべく他者を介在せず瞬時に機械的に欠乏を満たそうとする」ということだと考えていただいてよいと思う。
 今日では、金さえ払えば毎日の食事や性的パートナー、ファストフートや性産業まで一切の面倒なコミュニケーションなしで手に入れることができる。絵もAIで作成する。これらより、我々は動物化の道を歩んでいるように思える。動物化するポストモダンとはそのような状況を指している。

 この本では上記より、動物化するオタクとは「物語を深読みせずに、萌えを効率的に摂取するようになったオタク」ということだ。
 つまり、効率的に泣け、効率的に萌えるという事が大事である。これは本が発行された当時よりさらに進んだと思われる。最近タイパ(タイム・パフォーマンス)という言葉を聞く。私も動画は二倍速で見るタイプだが、いかに効率よく摂取し、行動できるかという事ばかり目が行ってしまうように思われる。

 私は動物的という意味は悪い意味ではないと考えている。なんでも芸術的・哲学的である必要なんてない。時間もかける必要はない。もし動物的なものが存在しないなら、摂取するまでに苦労するのだからもっと世界は苦しみに満ち溢れているはずだ。ただ、すべての最近の対オタク用創作物が動物的需要に合わせて描かれている必要はないということは申し上げておきたい。

世代によるオタクの嗜好性の違い

 まず、オタクといっても年齢などでもかなり幅広く、一括りにすることができないと思われる。この本では年齢の嗜好性の違いは書かれていたため、引用する。

・60年代前後生まれはガンダムなどを10代で見てきた一世代(世界観や歴史を見出すことが一般的だった)
・70年代生まれで第一世代が作り上げた熟考し細分化されたオタク文化を見てきた第二世代
・80年代生まれでエヴァブームの時に中高生だった第三世代

 繰り返すがこの本は20年以上前のものであるから、ここ最近(2002~2024年)については語られることはない。筆者も含めZ世代やα世代などと言われるように、デジタルネイティブが存在するため、また追加で議論が必要だろう。

 さらに本では「第三世代オタクはデータそのものには固執するものの、意図などに対しては無関心である。イラストや設定などで感情移入を強め、消費するいわゆるキャラ萌えが主流」との記述がある。これは現在の世代でも結構いえることなのではないか。
 最近ではドラマでも似たような医療ドラマや学園モノなどが溢れ、偏見かもしれないが、ただ役者をテレビに映らせるという口実にも見えてしまう。繰り返しになるが、そのこと自体は決して悪い事ではない。

二次創作から見るポストモダン

 ここからは動物化するポストモダンを念頭に二次創作を考えていく。

コミケ風景。このサイトから引用。私はコミケに行ったことが無い。同人イベント自体も今年の春に初めて行った程度である。

我々が消費しているものは何か

 皆さんは二次元などのコンテンツを見る時は何を消費していると考えているだろうか。ストーリーだろうか?しかし、この本では、消費されているものはドラマや物でなく、その背後のシステムであるとなっている。

 しかし、それ自体を売ることは出来ないので、その断面である一話分のドラマやキャラクターなどのモノを見せかけとして消費する。このような消費を繰り返しプログラム全体を(錯覚であっても)手に入れてしまえば、二次創作を自由に作ることが可能になる。

 例えば772枚のビックリマンシールの世界観を認知している(と思い込んでいる)者が773枚目を自らが作成する。それは世界観に準じているとするとオリジナルでもなく複製されたコピーでもない。そのため本物か偽物かという区別はつかなくなってくる。

 実際にジャン・ボードリヤールも1976年には「ポストモダンの社会では作品と商品のオリジナルとコピーの区別が弱くなりシミュラークルいう中間形態が主流になる」と話していた。もちろんボードリヤールは文化産業の未来のことを話していた。しかし原作もパロディも等価値で消費するオタクたちの価値判断は、オリジナルでもコピーでもないシミュラークルの範囲で働いているようだ*。
*個人的にはこの意見は疑問だ。やはり公式や原作しか得られない感動はあると思う。例えば二次創作で好きなカップリングが原作でも交際や結婚などしていたら嬉しいだろう。逆に二人が別の誰かとくっついたら悲しいだろう。少なくとも私はそうだ。

ビックリマンシール(公式サイトから引用)公式では現在2483枚あるようだ。

基本的に二次創作は純粋な白痴だ

 二次創作でも例外なく、動物化している。というよりはもともと二次創作は上で述べたようにキャラなどの世界観を組み合わせて萌えを作成するため、動物化が主流だと思われる。つまり二次創作でも大多数の作品が効率的に萌え、効率的に泣くものであろう。

 二次創作で特に人気なのはカップリングである。オールキャラなども見ないことはないが、主流ではないことは二次創作を見ている方ならわかるだろう。おそらくオタクは推しの萌えを得るために恋愛という触媒を使う。そのほうが推しのかわいいシチュエーションがたくさん見れるからである。(ブロマンスも含めて)私もそのほうが好きだ。

 さらに二次創作ではパラレル(パロディ)を扱うものも多い。筆者も大好きである。これはオリジナルのキャラクターを使い、別の世界でストーリーを組み立てる物である。例えば公式の例だが、エヴァで言うと冒頭例に挙げた「碇シンジ育成計画」がそれと言えるだろう。

 もはや我々が萌えを摂取するためには、エヴァパイロットはエヴァに乗らなくても、青学テニス部はテニスをしなくても良いのである。

今日をもって、公式は死んだ

 オタクが動物化するにつれて公式はどのような反応をとっていったのだろうか。結論から言うと、オタクを意識し素材を提供するようになったと考えられる。

 例えばエヴァでいうと「碇シンジ育成計画」である。これはエヴァンゲリオンがある世界戦ではなく、キャラクターたちの学園ものである。こちらに関しては二次創作とほぼ変わらない。エヴァはキャラクターも魅力的であり、学園ものの需要があったのだろう。
 他にもあるが次の記事でもう少し見ていこうと思う。

碇シンジ育成計画。そんなに見たことはないが、確か漫画はラッキースケベが多かったような気もする。アスカ様しか勝たん。

 テニプリでいうと庭球浪漫である。実際に私と友人も購入したが、別の友人に「なんでテニスやってないの?」って言われるまではテニスをやっていないことに対して何の違和感もなかった。オタクとはこういうものかもしれない。
 テニプリは原作以外では特にBL需要に合わせた匂わせが多い。例えば私の好きな黄金ペアもペアリングをしていたり、好きな記念日が一緒だったりと???なことはある(ありがとうございます)。

庭球浪漫(私物)。全くテニスは関係ない。推し達は見ての通り今日もかわいい。

 また、カリスマという作品にも触れておきたい。二期が始まってからカリスマたちの過去に触れるようになったが、結構はっきり過去が描かれた人物は天彦と猿川の二人だけのように感じる。依央利に関しては詳細はわからなかった気もする。
 おそらくこれは二次創作をしやすいようにしたためだろう。二次創作は公式で描かれていない余白の部分を主に描くため、あえて空白を残す対応はとても重要である。二次創作が盛り上がると、作品自体の人気も上がる傾向があり、それを狙ったのだと思われる。

カリスマ。最近人気な気もする。全てにおいてぶっ飛んでて面白い。特にMV。
因みに推しはテラ君・天彦・ふみやである。

 過去の作品はオタクの反応など気にしなかったものが多かったかもしれない。しかし、最近(といっても前者二つは2,30年前)はオタクに合わせたような作品が多いように見受けられる。人によっては公式は死んだと感じる人もいるかもしれない(私個人としてはそうは思わない)。

まとめ

 今回の記事のまとめを記述しよう。

・ポストモダンではオタクは萌えを効率的に摂取するようになった(動物化)
・オタクたちは世界観を買い、オリジナルともコピーとも違う(シミュラークル)二次創作を創る
・二次創作も効率的に萌えて泣くものが主流である
・公式も動物化するオタクたちに素材を提供するようになっている

 少し刺激的な言葉で申し訳ない。しかし傾向としては、東氏が主張することは大きくは外れていないと思う。もちろんすべての作品がそうとは言っていない。また、私も動物的な行動をしているため、それらの作品に対してとてもお世話になっている。

おわりに

 冒頭で話した通り個人的な感覚としては二次創作界隈は非常に考察がしづらく、閉鎖的であると思う。その難しさはフェティシズムからくるように見え、セクシャリティの問題に似ている気もする。つまり自分の解釈やフェチに対して異論を唱えられると、人格が否定されたように錯覚してしまう。
 こう錯覚することに対し全く否定などはしない。私事で申し訳ないが、私自身もセクシャリティ/ジェンダーに関してアンコンシャス・バイアス(女性/異性愛者だと前提にされる)を向けられることは日常茶飯事ではあるが、毎回少しずつ傷ついている。

 そのため、物語に解釈違いやBLで多く見かけるカップリングの受け攻めの逆などが認められないということは仕方がないと思う。それに対して責めてはいけない(ただし別意見がでたことにより言った人を責め始めるのは本当によくない)。

 しかし、先ほど記述した通り、議論の隔たりの1つになることは間違いないと思う。そのため哲学・芸術対象としては中々発展しづらいのかと考えた。もちろんする必要がないと考えている人も多いし、当事者のオタクもそう思っているだろう。

 とはいうものの、二次創作に関してはまだまだ未開の地であると考える。今後二次創作やオタク的活動に関して、哲学や芸術として取り入れられることを期待する

付録

 今回の記事と直接は関係ないが記述したかったことを載せる。

動物はオリジナルの夢を見るか?

 漫画や小説での二次創作作品の魅力を書こう。

 ひと昔前にMADという、音楽などに合わせて実際にアニメやゲームで使われた映像を流すという動画が流行った。見たことあるだろうか。これも一応この本では二次創作に含まれるらしい。これこそ素材をそのままくりぬいて、自分の好きな萌えを表現できる。公式と同じように。これこそ773枚目のビックリマンチョコシールといえるだろう。

 しかし、個人的にはMAD形式より漫画や小説が好きである。繰り返すが、絵や小説などは創作者のバックグラウンドが入りやすいからである。もちろんMADには一ミリも入ってないとは言わない。しかしながら、出来るだけ創作者が介在した作品の方が、創作者が反映されやすいのは間違いないだろう。

 また、AIで絵を描くということ自体は否定しないが、私は結果よりも過程のほうが大事かと思われる。AIで描きたいこと絵がかけたとしてもそれ以上何も生まない。絵を描いている方ならわかると思うが、描くことによって偶然新しい手法やいい表現が見つけられると思う。さらに試行錯誤することにより、経験として蓄積される。
 ノーベル賞は別の実験をしていたら偶然に起こる現象がもとになったことが多い。絵や小説も過程によって発見できたことはたくさんあると思う。どうか新たなる進化が生まれるような機会がなくならないでほしい。

 オリジナルが一番という方も非常によくわかる。それを超えてはいけないという意見も分かる。しかし、私は現代美術出身であり背景をみたい。そのため創作者の考えがはっきりと出ている作品の方が好きである。

個人的村上隆論

DOB君。tagboatから引用

 おまけで村上隆論を入れる。前の記事のほうがあっているとは思うものの、この本でも村上隆が取り上げられていたため、記述する。
 しかも最近この記事がバズり、最近話題でもある。

 私はこの記事を見る前から「村上隆は尊敬するし、芸術的まなざしとして鑑賞することができれば結構良い作品と思うが、作品を好きになることはできない」というスタンスをとっていた。理由は漫画やアニメなどフラットなコンテンツを芸術作品と同列に並べた功績は本当に尊敬し称賛するが、作品自体がオタク人格として生理的に無理だからである。なんという感情論!!エヴァのMAGIシステムのようだ。

 前者の功績に言うことに対してはもう何もない。心の底からありがとうとしか言えない。そのため後者に関して話す。
 村上隆は本人も日本で嫌われていると話している。おそらく日本ではフラットコンテンツを芸術として扱うことより、オタクが嗜好するものだと考えられているからだ。つまり、オタク受けが悪い。
 (まだ)安全な例を挙げると「Ko²ちゃん」だ。オタクの萌えを集めて結晶化させたようだが、見ていて不快になる。
 おそらく理由は「オタクとはこういうものでしょ!?」と言われているようなこと(この記事はブーメランになる)と、乳首が立っていたりパンツが見えていたりするからだ。おそらく性的対象としても二次元作品を見ている人にはもっと不快に映るのではないだろうか。実際にS.M.P.Ko2を共同で制作した中心人物であった方は村上氏は「オタク遺伝子」が欠けていると話したらしい。
 また、安全じゃない例は「マイ・ロンサム・カウボーイ」「ヒロポン」だ。こちらのほうを述べたかったがあまりにもアレなので避けた。気になる人は自己責任で検索してほしい。

このサイトから引用。右側の作品である。この展覧会はラブドールなども置かれており、初めて見た。素晴らしい造形美で大変勉強になった。オリエント工業の廃業はとても寂しい。

 他にもDOB君など、何れも生理的な嫌悪感がある。しかし、DOB君は村上隆作品によく登場し、作画や状況が変わるように作品が作られている。これは二次創作のようで面白い。DOB君の中心はどこにあるのだろうか

動物化する現代と芸術

 24/9/14追記

 ワタリウム美術館で国立西洋美術館の新藤氏の公演を3回聴講した帰りで少し思いついたものがある。動物化する現代での芸術の扱いだ。

 本文でも少し触れたように、我々は動画を2倍速で読み、短い歌を聴き、大げさに書かれた記事の見出しやTLに流れてくる色彩の強い絵、もしくは性的なものに目を奪われる。それで見落としてしまうものはどれだけあるだろうか。

 私は美術館にあまり滞在しない。アートは気に入ったもの、目を引くもの以外は一瞬だけ見てやめてしまう。とても動物化している例だと思う。
 しかし、アーティストによってはとても時間をかけて味わう。例えば本日話していた内藤礼のcolor beginningである。この絵は本当に薄く絵の具が塗られていて、目が慣れるまで時間がかかる。つまり、絵画にちゃんと向き合うには少なくとも目が慣れるまでの時間は必要である。
 内藤礼はその他にもひっそりと見逃してしまう作品が多い。ちゃんと感性を働かせ、存在が気づかれないような作品達とも向き合わなければいけない。果たして全ての作品を観ることは、動物化された我々に見つけることができるだろうか

内藤礼 color beginning
このサイトから引用

 二次創作も芸術もそれ以外もまずは目を引かないと何も始まらない。しかし、目を引かれないそれらには大切なことが眠っているかもしれない。

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