人生を賭ける探究テーマを見つけるために
スポーツが遊びであるように、学問もまた遊びである。
共通しているのは、どちらも自由であるということ。自由であるからこそ、人間は「遊び心」を持つことができる。それは、人間が本質的に自由であることの象徴だ。
そんな遊び心を根底で支えているのが、「探究心」だ。
探究心は、何かに疑問を持ち、何かに心を奪われ、何かを追い求める気持ちから生まれる。それは、外から強制されて芽生えるものではなく、人間の内側から自然に湧き上がる衝動である。
多くの高校で「探究の時間」が導入されている。
探究が教育の一部として認められたことは喜ばしいことだ。しかし同時に、何かを「探究しなさい」と言われてしまうような状況が生まれることには危惧を感じる。探究とは本来、自らの好奇心や興味から生まれるものだ。人から指示されて行うものではない。
その反面、探究ができない人が増えているとも言われる。
何かに夢中になれない、何かに疑問を持てない。そんな社会に生きているのかもしれない。だが、探究する心は今だから、VUCAの時代だから必要なのではなく、古代ギリシャの時代から変わらず人間の本質だ。時代がどうであれ、人はいつでも探究し続けてきた。だからこそ、探究心を育むことは、どの時代でも大事な教育のテーマなのだ。(これまでの教育へのアンチテーゼとして、時代の変化を盾にVUCAの時代を武器に探究的アプローチの導入を訴えるのは悪くはないが、VUCAの時代でない時代から、探究的な学びの重要性を説いてきた先人は大勢いる。偉大なる先人への敬意も含め、VUCAの時代だからこそ、「学び」に探究的アプローチを取り戻さなければならないのは事実である)
とはいえ、「探究心を育む」なんておこがましいのかもしれない。
探究心を育むというよりも、それを失わないような環境を整えることが重要だ。好奇心を持ち続けてもいい、探究してもいい、そんな安心感を感じられる環境。それを作るのが学校の役割ではないだろうか。
だから小中学校では、子どもたちが多様な好奇心を育めるよう、多くの教科に触れる環境が用意されているのではないか。それがいつの間にか、中学はおろか小学校までもが、知識注入が優先され好奇心を広げる時間が奪われがちだ。
小学校はもっと子どもらの五感を刺激しながら、知的好奇心に浸れるよう、子どもと一緒に楽しめばいいのではないか。知ること自体が楽しいのだから、自然に覚えることも多いだろう。強制的に教えなくともたくさんのことを誦じられる子はたくさんいる。覚えるのは知識だけではなく、スキルである。好奇心を持つことの楽しさの実感であり、好奇心から探究心へのプロセスである。
義務教育の終わりである中学卒業段階では高校受験がある。これまで身につけてきた学びのアウトプットの集大成である。高校受験の是非はここでは置いておこう。学びの集大成という考え方自体は問題ではない。検査方法、評価方法については意見の分かれることであるが、ある一定のアウトプットが必要であることは否めない。
だからこそ、進学したのちの高校では、再び小学校の時のような多様な学問の面白さに触れる機会を提供し、子どもたちが一番興味を持てるものを見つけられるようしてもいいのではないか。高校段階だから味わえる知的な好奇心。学問探究という面白さ。その興味をもとに探究を深め、自分のアイデンティティとなる探究テーマを見つけ、大学進学や就職、起業といった未来への道を切り拓く力を身につけていく。
学校教育の目的は、「人生を賭ける探究テーマを見つけるサポート」に絞ってもいいのではないか。
そうやって巣立った人々が、自分の探究テーマを次々と変えながら、生涯学び続ける楽しさを味わえるようになればいい。
スポーツもアートも学びも、所詮は人が夢中になれる「遊び」にすぎない。
遊びを極めるから人を感動させるし、そこにお金を払いたい人が出てくる。
遊び心を持ち続けること、そのために探究心を失わない環境を作ること。
それがこれからの学校教育に必要なことではないだろうか。