「お疲れさまです」という言葉に漂う哀愁
ある日の夕方、近所を犬の散歩で歩いていたときのこと。
目の前をのんびり歩くおじさんがいた。おじさんは手には横断旗を持っていた。おじさんは、小学生が安全に横断歩道を渡ることができるよう、旗を掲げる当番の帰りのようだ。
すると、道の向こうから学校から帰宅途中の小学性と思しき少年が歩いてきた。少年は、明るく、元気よく、おじさんにこう言った。
「こんにちは~!」
目の前を歩いているおじさんは少年に向かって手を上げながら言った。
「お疲れさまです~。」
え・・・? と僕は違和感を感じてしまった。
なぜなら、少年はおそらく小学校で学び、遊んできた帰り道だろう。少なくともアルバイト帰りではないはずだ。少年は自分の活動に疲れているかもしれないが、それは決して慰労されるタイプの疲れではないと思う。
「お疲れさまです」と声をかけられた少年も、たくさんの大人から「お疲れさまです」という言葉をかけられるうちに、小学校が疲れるところなんだ、と勘違いしなければいいけれど。大人が子供に与える影響は知らず知らずのうちに、子供の認識する世界を変えていくので、気をつけなければ。
それにしても、この違和感は何だろう。僕が会社を辞めて2年半が経とうとしている。今思うと会社勤めをしているときは、やたら「お疲れさまです」を連発していた。出会う人には、「こんにちは」ではなく「お疲れさまです」があいさつ代わりの言葉になっていたように思う。会社を離れ、そうした習慣は自然と消失して、今はふつうに「こんにちは」と言えるようになった。
きっと、横断旗のおじさんは(平日の夕方なので推測だけれど)会社を定年してからも、「お疲れさま」が体に沁みついて離れなくなってしまったんじゃないかな。そうだとすると、ちょっとさみしい気持ちにもなる。「お疲れ様」はそんな哀愁が漂う言葉でもあるのだ。おじさんの「お疲れさま」を言う習慣が、はやく「こんにちは」と言える習慣になるといいな、と思った。