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「弱者男性になるな」「弱者男性になったら人生終わり」という社会の圧が京王線ジョーカーを産む

――京王ジョーカー事件の服部受刑者は、「弱者男性のヒーロー」だったのか?

僕はこの問いに「NO」と反論を突きつけたい。


先日FNNプライムオンラインの企画「しらべてみたら」で、3年前2021年の10月31日ハロウィーンの日に起きた「京王線”ジョーカー事件”」を振り返る特集動画が公開されていた。

特集の中で服部受刑者の「犯行の動機」が取り上げられており、そこでは

  • 職場でのトラブル

  • 9年交際した女性との別れと喪失

の2つがあったとされていた。

僕は「服部受刑者が弱者男性と言えるか否か」という観点でこの事件を捉える際に、この動機に大いに注目すべきだと思った。

なぜなら、上記動機に挙げられるているような「就職状況」と「恋愛事情」の2点は、大きく「弱者男性か否か」という判断に関わりのある物だと考えているからだ。

服部受刑者は「職場で苦しい目に遭い」「彼女を失った」ことで自分の存在価値を見失い、自殺する勇気が無いから大量殺人を起こして死刑にしてもらおうと考え犯行に及んだ』、と言うのがこの「京王線ジョーカー事件」とするのであれば、なるほど確かに服部受刑者は「弱者男性として世の中に報復をしたヒーロー」と捉えたとしても何らおかしくはないだろう。

しかし、僕は犯行に至った動機を、むしろ以下のように捉えた方が「京王ジョーカー事件」を考えるうえでより建設的なのではないかと考えている。

服部受刑者は「(社会的に無価値な)弱者男性になってしまいそう」な自分を受け入れることができなかった。それならまだ「人の命を何とも思わないジョーカー」に自らを投影することで自己肯定感を保つ方が「マシ」だった。そのための「実績作り」こそが「京王ジョーカー事件」だった

このように捉えると、服部受刑者は「弱者男性のヒーロー」ではなく、むしろ「弱者男性になりたくなかったから(ダーク)ヒーローを目指した人物」と言えるだろう。

つまり服部受刑者にとって「弱者男性に堕ちること」は、「人の命を何とも思わない犯罪者」になるよりもずっと悲惨なことであったから、彼は犯行に至ったのではないかと僕は考えているのだ。

では、もしそうだとしたら、一体何が彼をして「弱者男性」になるぐらいなら「犯罪者」になった方がマシと考えるに至らしめたのか?

今回の記事では、なぜ僕が「京王ジョーカー事件」を「弱者男性のヒーローが起こした報復事件」と捉えることができないのか、そして事件の原因は他のどこにあると考えているのかについて書いていきたい。

「無差別な報復」に対する違和感

服部受刑者は、「京王線の乗客」という自分には全く関りが無く、恩も恨みも何も無い人物に対して凶行に及んだ。

これが「無差別」と言われる所以だが、僕はここに対して「弱者男性が世の中に対して報復したものだから無差別だった」という解釈を加えることに対して大きな違和感を覚えた。

その違和感について明確にするため、他の類似する事件を例に取り上げて考えてみよう。

有名な事例としては2008年に起きた「秋葉原通り魔事件」があるだろう。犯人である加藤智大元死刑囚は、秋葉原の歩行者天国にトラックで突っ込み、その後ナイフで道行く人々を次々と殺傷。合計17人の死傷者を出した、戦後日本で最も残忍な無差別殺傷事件の一つである。

当時マスコミはこの事件に対して「派遣労働に苦しむ若者による社会への報復的犯行だ」と囃し立てたそうだが、しかしその実情は「ネット掲示板で自分に嫌がらせをした者達に対し『こんなことになるんだぞ』ということを知らしめるため」という、ある特定の自分を害した者達への極端な報復であることが本人の供述から分かっている。

つまり加藤元死刑囚にとって、殺傷した自分に無関係な人たちは「目的」ではなく他の人物に対する報復のための「手段」に過ぎなかったということだ。

他にも追い詰められた男性が起こした報復テロ的犯罪行為として衝撃的だった事件としては、「京アニ放火」の青葉死刑囚や「安倍首相銃撃」の山上被告等が挙げられると思うが、これら事件は明確に「自らを害した特定の人物・団体」への報復行為を行った物である。

つまり、実はこれまでの日本社会において「大きく日本全体に対して恨みを募らせ、その報復として無差別に人々を殺傷する」といった類の事件と言うのは未だかつて存在していないのではないかと言うのが僕の推察なのである。

何なら、服部受刑者自身がモチーフとして置いた「ジョーカー」ですら、大ヒットした映画「ジョーカー」内においては無差別な殺傷など行っておらず、「自分を馬鹿にしたサラリーマン3人」「自分を陥れた同僚」「自分を騙していた母親」「自分を晒し者にしたコメディアン」等々、全て「自らを害した者達」に対して凶行に及んでいた。(「ダークナイト」等、完全に「悪のカリスマ」として目覚めて以降のジョーカーは除く)

総じて、服部受刑者が「自分を追い詰めた社会への報復として無差別殺傷に及んだ」という解釈は、歴史的に見ても、また心情的に考えてもかなり無理があり、普通殺傷行為という物は「もっと明確な、自分にとって利がある目的」に沿って行われる物だから、服部受刑者にも「無差別に殺傷を起こす」ことで自分に何かしらの利があったから行為に及んだと考えるのが自然だというのが僕の見解だ。

服部受刑者が欲しかったものは「彼は"凶悪犯罪者"であって"弱者男性"ではない」という勲章だったのではないか

服部受刑者の行為の異質な点は、今の時点で「殺傷行為をすることによって報復したかった特定の相手」が全く見つかっていないということだ。

加藤元死刑囚でも、青葉死刑囚でも山上被告でも、「ジョーカー」でさえその行為には明確な「報復したい相手」という物が見えていた。しかし服部受刑者の無差別行為にはそれが全く見えてこない。

動機に出ていた「別れた彼女」や「トラブルになった職場」に対して報復をしたいのであれば、「自分の住む場所から遠く離れた街の、電車内での無差別殺傷行為」というのは全く的が外れてしまっている。関係の無い遠くの誰かがいくら残酷な目に遭おうと、「元彼女」や「職場の人たち」は全く心が痛まないし社会的ダメージも受けないからだ。

であれば、服部受刑者の犯行の目的は「報復行為」が目的なのではなく、何か他の、自分にとって利のある目的のためなのではないかと考えるのが当然の流れだろう。

服部受刑者は、裁判においてこのように述べている。

自分の存在価値が分からなくなって
生きていく価値がない
死にたいと自殺願望を抱くようになった

裁判記録

そして、「でも自分では死ぬことができないから、大量殺人をして死刑にしてもらおうと思った」と続く訳だが……。

さて、ここまでのロジックに当てはめるのであれば、服部受刑者にとって「”大量殺人犯”となって死ぬこと」が彼にとって利がある行為だったということになるが、ここで疑問が湧いては来ないだろうか?

「9年間交際していた彼女と別れた」――確かにつらい出来事だろう。
「職場でトラブルになった」――深刻な出来事だとは思う。

だが、死ぬほどか??

しかも大量殺人犯になって? 多くの人の命を巻き添えにして??

各人の事情も考慮せず感情の多寡について語ることほど不毛なこともないが、しかしそれにしたって僕は違和感をぬぐうことができない。

しかも、服部受刑者は犯行当時まだ24歳だったのだ。

若い!

まだまだ、いくらだって無限の可能性があるじゃないか!

また彼女だって作れるだろう、転職したって良い、しばらく無職でふらふらしたって、若気の至りとしていくらでも後の人生の思い出になるんじゃないのか……?

しかし、服部受刑者はそうは思えなかった。これが事実なのだ。いくら僕のようなおっさんがネット上でやいのやいの言ってもどうしようもない。

では、なぜ服部受刑者はそこまで自分の生に絶望してしまったのか? 一体何が彼をそこまで――「今の自分でいるぐらいなら、大量殺人犯になって死刑になった方がマシ」とまで思わせてしまったのか?

……実は、僕はそれこそが今日まで「弱者男性」という物に対して「弱者男性にだけはなるな!」「弱者男性から抜け出した先に幸せがある!」と散々煽り散らしてきた「弱者男性ビジネス」及び「社会的価値観」の責任であると考えているのだ。

「弱者男性」の過ぎた「無価値化」が男性の生きづらさを産む

近年「弱者男性」という概念が広く浸透し、「家庭も無く、恋人も無く、まともな職にも就けていないようなおじさん」に対して「だからといってないがしろに扱っていいわけではない」という風潮も徐々に共通認識になりつつあるように思う。

そのこと自体は、僕は「まあ、何でも炎上する世の中ならそうなるよね」とある種の納得を得たり、「でもそれってイコールで社会の寛容につながっている訳でもないよね」と否定的に捉えたりと色々あるのだが、重要なのはそこではない。

問題なのは、「弱者男性だからと言って差別してはいけない」という考えがある一方で「でも誰だって弱者男性にはなりたくないよね。弱者男性って良いところ全然ないよね」という認識は変わらず蔓延っているように感じられることだ。

弱者男性から抜け出て幸せになろう」「努力して成長することで真の幸せを掴める」等々、全く遠慮のない弱者男性ビジネスのこれら煽り文句が容認されるような社会の現状こそが、現代に蔓延る男性の生きづらさにつながっていると僕は考えている。

「家庭も無く、恋人も無く、まともな職にも就けていないようなおじさん」にだって本人なりの幸せだったり満足だったりがあるはずなのに、それは全くフィーチャーされず、ほとんどの場合そのような「弱者男性」は「怠けてたらこうなるぞ!」という、一昔前の工事現場で働いている人を指して自分の子どもに「勉強しないとあんな仕事にしか就けないわよ」と母親が脅すような使い方で引用されるだけなのである。


社会的に地位が低く、悲惨で底辺な絶対になりたくない存在」を提示することで社会を維持しようとするやり方を、人類は幾度となく繰り返してきた。

ナチスのユダヤ迫害然り、黒人差別然り、江戸のえたひにん然り……。

現代社会でそれら差別が不当な物として排除され、言わば社会が「漂白化」される中、行き場を失ったそれら感情のはけ口が今「弱者男性」へと一身に向けられているように僕は思う。

しかも質が悪いのは、歴史上のそれらと異なり「弱者男性に対する差別」は「男性優位の社会でそこまで落ちぶれてしまった怠け者への当然の扱い」としてある種正当性を帯びてしまっていることだろう。

「差別はいけないこと」という社会的価値観のおかげで表面的な扱いは平等になっても、個々人の感情の向き方に関してはもう本当にどうしようもない。

そして「弱者男性は社会の底辺」という「正当な差別的認識」は、いざ自分がその立場になった時一気に反転し、「自分は存在価値の無い底辺になってしまった!」として「もう生きる価値が無い、死ぬしかない」と急転落を引き起こすのである。


「京王線ジョーカー事件」を起こした服部受刑者も、そのように考えたのではなかろうか。

――彼女に振られた。職場でもうまくいかない……え? じゃあ自分って今「弱者男性」ってことなのか……?

……嫌だ嫌だ嫌だ!! あんなにも悲惨で、これまで散々馬鹿にしていた「弱者男性」に自分がなったなんて、絶対に認められない! そんなのもう死ぬしかない!!

――そうだ、俺は「ジョーカー」なんだ「弱者男性」なんかじゃない、他人の命なんて何とも思わない「悪のヒーロー」……。

――だったら、無差別殺人を起こさなきゃ。それで死刑になれば、俺はもう絶対に「弱者男性」なんかじゃない。「悪のヒーロー」「ジョーカー」として生きることができるじゃないか!


これが、服部受刑者にとっての「無差別大量殺人をする利点」だったのではないだろうか。

世の中が「弱者男性」に対しての認識を改め、「弱者男性もいいよね」「弱者男性こそが良いよね」と……そうならない限り、今後も京王線ジョーカーのような理不尽な無差別事件が起こる心配は無くならない。

僕はそう思っている。


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