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弱者男性のもがきは、自らを貶めた人権社会への復讐として現れる シリーズ「弱者男性はどこへ往く」第5章

「何も持たざる存在」としての弱者男性。彼らは人権による救済措置とされず、恩恵を与えられることも無く、ただただ「努力不足の無能者」として社会から冷たい視線を浴びせられるだけの存在として放置されてしまうに至った。

では、「お前がそうなったのはお前自身の責任だ」「弱者男性なんて、ただの怠け者だろ」などと心無い言葉をひたすらに受け続けた彼らは、果たしてどのようになるだろうか?

「確かに周りの言うとおりだ。もっと努力しなくては!」となるだろうか?

確かにそのように考え、自らを高め、弱者男性からの脱却を目指そうとする者もいるだろう。

実際にそうして、かつて何も持たざる弱者男性だった者が「何か」を手にし、強者男性となって幸せを得たということも確かに存在するのだと思う。

しかし、忘れてはならない。そのような稀有な事例のその陰には何百何千、あるいは何千万もの「もがいてももがいてもどうにもならなかった弱者男性」が存在しているのだということを。

そして、彼らはとうとう思い至る。

「この社会において、弱者男性は弱者男性のまま幸せになどなれない」のだと。

その考えの行きつく先は「この社会」への復讐である。


「弱者男性はどこへ往く」シリーズ第5章に当たる本記事では、

なぜ弱者男性は弱者男性のまま幸せになれないのか? 
その行き着く先がなぜ「社会への復讐」になるのか? 

社会の現状から読み解いた考察を書いていく。

強者からの叱咤激励は、弱者をより貶める

世の中には、強者からの「俺達のようになれ!」というメッセージが溢れている。

自己啓発系の本は押しなべてそうであるし、ネットYOUTUBEにもそのようなコンテンツは溢れている。

パーソナルジム、不動産投資、美容サロン、結婚相談所……それら全て「弱者男性は強者男性になることこそが幸せ」というメッセージが基本となって成り立っているビジネスだ。

なぜそれらコンテンツがビジネスとして成り立つのかというと、それだけ「強者男性になりたい・弱者男性から脱却したい」という思いの弱者男性が多いということであり、更には社会からのそうした圧力が非常に強いということもまた示唆している。

「チー牛」やら「子供部屋おじさん」やら、弱者男性を揶揄する言葉がこれだけ流行して社会的に受け入れられてしまう背景にもまた、「弱者男性はさっさと努力して少しでもマシになれ」というメッセージが込められているように私は思う。

逆に、「チー牛」の女性版のような言葉は流行らず、使われているとしてもごくごく一部の深層的な場所で、女性への悪意や憎悪前提の限定的な物に限られていることからも、困窮している女性に対して「もっと努力してマシになれ」という社会的な声は無いor非常に弱いということが分かる。

では、それら「弱者男性を強者男性に押し上げるという名目のビジネス」がこれだけ社会にあふれていて、それに加えて「弱者男性はもっとマシになれ」という社会的圧力が強いことがイコールで弱者男性を救うのかというと、もちろんそんなことはあり得ない。

ほとんどの場合それらビジネスに乗っかって努力したところで、社会的に求められている男性像と自分の現状とを比較し、社会もしくは自分に対しての絶望を深めるという結果に終わることだろう。

なぜならそれらビジネスは、「弱者男性をより幸福にする」ということが目的なのではなく、「ここまで上りつめれば幸せになれますよ」という社会が創り上げた虚構的ゴールラインを設定し、そこにまだ至ってない弱者から搾取することを目的としている物だからである。

極端な話、弱者男性が全て強者男性になってしまえば、それらビジネスは意義を失って食いっぱぐれてしまうため、実は弱者男性がいなくなってしまっては困るという自己矛盾を孕んでいるのだ。

そのため、「弱者男性はもっとマシになれ」と叱咤激励してくる社会は決して弱者男性を救わない。

それどころか、何千何万分の一の確率で強者男性になることができた元弱者男性が出てきたとしても、それは「ほら、努力すれば強者男性になることだってできるんだから、お前たちはまだまだ努力の足りない怠け者だから弱者男性のままなんだぞ」という、更なる弱者の再生産へと利用されるだけなのである。

弱者男性は社会の歪みを揺り戻そうとして強硬手段に走る

「弱者男性だけがその存在を否定され、努力を強要されるのに、その努力さえ認めてもらえない」という地獄のような社会に晒された弱者男性は、そこからどうなっていくだろうか。

「もっともっと努力しなくては」と大人しく社会に従う? 

まあ、そういう人もいるだろう。そうやって「社会の言うことを聞いていれば、いつか自分も社会の仲間に入れてもらえるはずだ」という、健気に過ぎる希望をもって日々を必死に生きている弱者男性は世に確かに存在し、弱者ビジネスに搾取され続けているはずだ。

「いつかは弱者男性だって社会に認められるはず」とじっと耐え忍ぶ?

もちろん、そういう人だっているだろう。近年「差別はいけないことだ」というある種の社会的流行の高まりを受けて、「これは男性差別だ!」という形で炎上する事例も時々出てくるようになった。僕が他の記事で書いている「牛角女性半額」の件もまさにそうである。

「男性差別が批判されるようになったのだったら、弱者男性への差別だって無くなるはずだ」と思いたくなるのも理解はできるのだが、しかしそれは流石に無理筋だと僕は思う。

理由は、これまで何度も触れたように「人権は能力差別を容認する」からだ。

人権下社会にとって弱者男性とは普通の人間ではない。「何のハンディも無いにもかかわらず自らの努力不足によって弱者になり下がった怠け者」を指すのである。

それゆえ弱者男性への差別は無くならない。表向きで弱者男性が差別的言葉を浴びせられるとか、あからさまに優劣付けて扱われるということは少なくなっていくことはあると思うが、しかしその内心に「何でこんな怠け者を他の”普通の人”と同じに扱わなくちゃいけないんだよ」という意識がある限り、弱者男性に対して「社会的に正当な」冷遇が無くなることはないだろう。

では「自分は永遠に弱者男性のままで、社会からの冷遇が無くなることはない」という現実に気が付いてしまった弱者男性は、果たしてどうなってしまうのか?

「自分自身がどうあがいても無駄ならば、社会を変えるかぶっ壊すかしかない」と思うようになることに、僕は何の疑問も挟まない。

――ある者は、無差別に他者に危害を加え自らの存在を主張することだろう。
「お前たちが俺を冷遇したからこんなことになったんだ」と叫ばんばかりに。

――ある者は、社会システムの上位者に対してその怒りをぶつけることだろう。
「マシな社会が生まれないのならば、何度でも社会をぶっ壊して作り直させてやる」と脅さんばかりに。

――ある者は、自らこの社会からの離脱を図ろうとすることだろう。
「こんな自分の居場所のない社会がいつまでも無くならず変わらないなら、生きていたって仕方がない」と嘆かんばかりに。

僕は、どうしても彼らのそれら極端な行動を一概に「間違っている」などと断じることはできそうにない。

彼らの生みの親とも言える「人権」が、そのシステムのもと運営されているこの日本社会自体が、全く弱者男性の幸福を保証してくれないこの現状――それは育児放棄をした親が「お前が不幸なのはお前が努力してないからだ。親のせいにするな!」とその子供に言っているに等しい。

その子供が、なぜそんな親の元で努力し続けなくてはならない?

その親に復讐することは、そんなに許されないことなのか?

その親から逃れる方法が、自らの生存を諦めることだけだったら、それを選択するのもやむなしなのでは無いのか?

そして、恐らくだがほとんどの人はこういうだろう。

「他人を害するのも、テロ行為をするのも止めてほしいから、じゃあ一人で勝手にいなくなってくれた方が社会のためだね」と。

「いなくなってくれてありがとう!」とさえ―――――


これでどうやって弱者男性は弱者男性のまま救われるというのだろうか。

だから、弱者男性は救われないのである。

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