「差別」を考える
おはようございます。ダイエット記録、公開中の23歳、いしやんです。
今朝、体内年齢が実年齢と同じになってびっくり嬉しい。
さて、今日は今の私が思う事柄について書いてみようと思います。
近頃、アメリカで起きた「白人警官による黒人男性への対応」(本筋と関係ないため曖昧にしています。)で人種差別について世界中で声を上げられていると認識しています。
日本に暮らす私たちは地理的な要因から、あまり異色人種と接点がなく、この問題には「机上の空論」になりがちな印象です。
しかし、「差別」は、日本人も無意識的にやってしまっていると思います。先日、とある芸能夫婦が不倫のスキャンダルを報じられましたが、その時の世間の反応は千差万別。しかしとりわけ多く見受けられたのは、「不倫された側」への気遣いや同情でした。
「差別」という言葉の意味を辞書で見てみましょう。
「差別」とは
①ある基準に基づいて、差をつけて区別すること。扱いに違いをつけること。また、その違い。
②偏見や先入観などをもとに、特定の人々に対して不利益・不平等な扱いをすること。また、その扱い。 「人種-」 「 -待遇」
(三省堂 大辞林 第三版)
私がこの記事で皆さんに投げかけたいのは、2つ目の意味です。
私も人としてまだ未熟なので、他人に言えることでは無い気もしますが、
「あなたの優しさから発した「気遣い」や「同情」は、その人にとって差別かもしれない」ということ。
例えば、同じ商品が違う値段で売られていたとします。簡単のため、一つは定価よりも安く、もう一方が定価の場合を考えましょう。
大多数の人は、「同じ商品なら値段が安い方を買うべきだ」と考え、安い方を選択すると思います。しかし、少数派かもしれませんが、こういう考えの人もいるかもしれません。「定価より値下げされているということは、何か理由があるかもしれない。そのリスクを考えるなら定価で買った方が信頼できる。」
簡単な例ですが、この時の判断基準は、目に見えている「値段」と目に見えない「信頼」の2点があげられ、一方は「値段」を重視し、もう一方は「信頼」を重視しただけに過ぎません。
日本に生まれ、多かれ少なかれ特定の環境下で育った私たちは、ある程度根底には同じ判断基準を有していると思います。それは(良くも悪くも)「偏差値教育」の賜物に感じます。
自分と似た境遇、似た知性といった共通項が多い集団形成が多いため、コミュニケーションの点ではスムーズに行くことの方が多いです。しかし、価値観や基準は人それぞれだということを忘れてはなりません。
さて話を戻しますが、当事者でなければわからないことも世界には多いと思いますし、極論ではありますが、人生なんてものは本人が死ぬときに楽しかったなと思えたらそれで良いと思います。
他人を思いやるということは、簡単なことではありません。同情してもらってありがたいこともありますが、時には良かれと思ったことで気づかないうちに人を傷つけることもあるということ。なので、その人の決断や意思を抜きに議論するものではないのかなと思います。その結果、選択肢を狭められてしまうこともあるかもしれません。「決断を尊重できること」が相手を思いやる究極な気がします。
「応援する」のであれば、「尊重する」ことを大切にできる人間に私はなりたい。
この記事も、私の意見の押しつけになっていると言えばそうかもしれませんが、色んな価値観を持つ「多様性」の社会が実現し、「尊重しあえる」関係が生まれたら良いなと切に願っています。
いしやん
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