【書評】時枝誠記『国語学史』
本書は、日本を代表する国語学者である時枝誠記(1900-67)によって書かれた国語意識の展開の歴史である。それは、元禄期以前から現代にまで及んでいる(と言っても、本書の初版の刊行が1940年であることから、昭和初頭までになる)。しかし、それは単なる歴史叙述ではない。時枝はこの翌年に、『国語学原論』という時枝自身の体系的著書を出版している。実を言うと、『国語学原論』執筆の経緯に、『国語学史』の執筆が大きく関係している。時枝は、国語研究の歴史としては、それ自体独立した使命を持ったものとしつつも、彼にとって、国語学史は、「国語学の体系を建設するに必要な一つの方法論的実践としての意義を持つもの」であった。つまりは、彼にとって、国語学史とは、重要な位置にあるものであって、国語学の装飾ではなく、ましてや、「日本思想史の一部」でもなければ、「日本文化史の一部」でもない。むしろ、「新しい国語学を培う無尽の泉」とでも言うべきものである。
また時枝は、本書の内容について、「私の国語研究の最初に提出された問題に対する解答」とも言っている。歴史学においては、ランケ以来の実証主義的研究法があたかも基本原則であるかのごとき観を呈している。このような基本原則からすれば、本書の内容は、逸脱した内容であると捉えられかねない。だが、より詳しく言えば、その基本原則ともされる実証主義的研究法は、歴史学においては、厳密な史料批判によって歴史を叙述することであるが、厳密な史料批判という言葉が非常に抽象的なものである。具体的には何を指すのか、歴史史料の真偽さえ判明すれば事実はそのまま浮かび上がるということか、それとも、数多の本物と判定された歴史史料を見較べ続けながら歴史を叙述していくことか。後者の場合には、一つの事実に対して数多の見解が現われることも考えられる。そして、前者の場合には、判明した事実の背後には、瞬間的にであれ、それを記録に留める叙述家がいなければならない。でなければ、判明した事実は宙吊りにされたままとなる。ならば、前者は不可能になる。なぜならば、歴史は自ずと記録されることはなく、背後に叙述家を必要とするからである。また、本物と判定された歴史史料は一つとは限らない。そうなれば、それらを見較べ一つの結論を導き出す叙述家の力量が試されることになる。正当性があり気な異論が噴出することも考えられ、その場合、容易に結論に達することにはならず、最悪の場合には、永久に結論に至らない。したがって、厳密な史料批判とは、具体的な問いとしては、後者の場合しか考えられず、その場合、叙述家の力量や視点にも左右されるゆえに、正当性のあり気な結論がいくつも横に並びうる。そして、それらの結論を一つにするのは骨の折れる作業であり、個々の叙述家の良心としてしか厳密な史料批判を要求することができない。筆者としては、厳密な史料批判とは、以上のようにしか規定しえないが、誰もが筆者のように規定するとは限らず、抽象的であるがゆえ、十人十色の厳密な史料批判論が氾濫することも考えられうる。となれば、時枝が、自身の『国語学史』の内容について、以上のように規定しようが、それが良心としての史料批判によって貫かれているのであれば、とやかく言うことはない。
長々と歴史学の研究法にまつわる私見を述べてしまったが、ここで話を戻す。ここまで、『国語学史』について説明してきて一つの疑問が生じることになる。それは、「なぜ、時枝は『国語学史』にこれほどまでに重要な意義を与えようとしているのか?」ということである。これについては、明治期以降の国語学の展開と大きく関係している。時枝によれば、明治期以降の国語学は、西洋の学問の水準に追いつこうと、西洋の言語学の理論を深く究めることなく適用した。だが、これは国語学のみに限ったことではなく、開国して西洋諸国と肩を並べなければならなくなった以上は、国語学以外の諸学問分野にも波及している。ただ、時枝は国語学者である以上、国語学者として、西洋の言語学の理論の安易な援用を問題にしているのである。
例えば、時枝は、明治初期の文法研究を例として挙げている。時枝によれば、この時期には、西洋文法の組織に、国語を組み入れることがよく行われ、背景には、西洋の理論に対する盲信や過信があったという。それに対して、明治期以前の国語学には、「自らの力によって国語現象を発見しようとする態度」があるゆえに、よっぽど科学的精神に立脚しているとした。これを単なるナショナリズムの現われと見るべきではない。吟味することなく西洋の言語学の理論を援用すれば、それだけで科学的精神に立脚しているのかどうか疑問に思っているに過ぎない。ただそれだけのことである。
また時枝は、十九世紀以後の西洋の言語学について次のように言っている。「ヨーロッパ言語学、特に十九世紀以後の研究においては、自然科学的考え方の影響を受けて、言語学の対象を著しく自然科学の対象に近づけて考えるようになった。自然科学的方法が言語学にも適用出来るということは、言語学の誇りででもあったのである。」言うまでもなく、近代科学の影響が、西洋の言語学の理論にも浸透したということを意味している。自然科学の対象として言語が扱われる、つまりは「物」として。時枝によれば、当時の代表的な言語学者ヘルマン・パウルにも言語を「物」と見る傾向があり、1960年代に哲学の領域においてレヴィ=ストロースに端を発する構造主義の始祖のように扱われることとなったソシュールについても同様とされる。時枝の参照したソシュールの著書の翻訳に不備があることが後に明らかになったにしても。そして時枝は、「物」としての言語という考え方の対極に日本語を見ている。「ヨーロッパ言語学に通じて見られる言語を「物」として見る傾向に対して、日本に古くから見られる考え方は、「事」と「言」とを同一視する考え方である。国語において「事」と「言」とは共に「こと」といわれている。」この同一視された二つの「こと」は、時枝によれば、西洋の考え方のように「物」として言語を見るのではなく、「言う事」、そしてその根本にある「心」が発動し言語となることである。そしてこの「心」から「言語」となるような古くからの日本語の考え方をもとに、後に時枝は、かの有名な「言語過程説」を提唱することになるのだが、ここではその詳しい説明は措く。
だがしかし、先に述べた疑問に答えなければならない。ここまで説明してきてだいぶ明らかになったように思われる。彼にとって国語学史は国語学の体系を建設する上で必要不可欠なものであるのだが、開国して西洋諸国と肩を並べなくてはならなくなった以上、明治期以降にまるで突貫工事のように西洋の言語学の理論を国語学に適用しなければならず、その過程で、西洋の理論に対する盲信や過信があった。そして、その西洋の理論が、近代科学の影響により、言語を「物」としてのみ扱うものであり、それは、日本に古くから見られる考え方とは、対極にある。それゆえ、西洋の言語学の理論は、むしろ国語学の発展を阻害するものであり、明治以前の国語意識の展開に帰ってから、国語学を発展させるべきだという訳である。でなければ、国語学の発展はない、ゆえに、時枝は『国語学史』に重要な意義を与えようとするのである。
なお、本書は大半が元禄期以前から現代(昭和初頭)までの研究史の叙述に終始しているが、書評という体裁の都合上、各時期の研究史の要約の紹介を断念することをお断りする。一つの時期のみを取って見ても、扱われている事柄が多岐に渡るという事情もある。
明治期以降の国語学に一石を投じた時枝だが、1990年代に日本でも知られるようになったカルチュラル・スタディーズやポストコロニアル理論の分野で批判されるようになる。それは、時枝が戦前から戦中にかけて京城帝国大学に勤めていたことと大きく関係している。時枝は、国語学の対象として、標準語のみならず、方言や海外で使用される日本語、外国人によって使用される日本語をも挙げており、決してその国語学は国家や民族の観念を基礎としている訳ではないが、日本語が朝鮮語を抹殺しつつあることに直面しなかったというものである。日本語を普及させるのは勝手だが、時代が許さなかったとはいえ、秘密裡にでも朝鮮語を保存することはできなかったものか。時枝が批判したソシュールとの類似点を指摘し、当時のナショナリスティックな国語学を批判したと評する論者(柄谷行人『日本精神分析』)もいるが、この点が唯一悔やまれる。
(岩波文庫、2017年10月刊)
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